第90話 一月二十六日(木)ー2 川野と川野のお父さん

 私は涙を拭き、鼻をかんだ。それを見て、川野は少し安心したように笑い、パンを食べ始めた。クリームパンを食べ終え、卵サンドに手を伸ばす。大きな口を開けてぱくりと食べる。

「いい食べっぷりだね。川野のお母さんを思い出した」

「ふふ、母ちゃんの食べっぷり、痛快やったろ? 母ちゃんも俺も、料理するのも食べるのも大好きやからな。そこは似たもの親子よ。父ちゃんはその点、本当に損しとるわ。うまいもの食って幸せって思うこと、あるんかなあ、あの人」

「川野のお父さんって、何が好きなの? 何を生きがいに生きてるの?」


 川野は答えなかった。無言で卵サンドを食べている。私はそのとき、とんでもないことに思い当たり、息をのんだ。


「川野……ごめん、私、そんなつもりじゃなかったのに。川野が来てるって知っていたら、お父さんの――祐介の恰好をして“袴の彼”に会いに来たりなんてしなかった。川野がいるなんて、知らなかったから……」

「俺に謝る必要なんかないよ。﨑里ちゃんが精神的に追い詰められとったの、俺、よく知っとるし、それに、父ちゃんのことは、﨑里ちゃんの学ラン姿見る前から、同性愛者かどうかっちゅうのはさておき、何かフツーじゃないって感じとったから。やっぱり、そうやったんかって感じ」

「そう、なの?」

 川野はため息をついた。

「同じ家にふたりだけで住んどるんよ。違和感を感じないはずないんよ。はは、でも、親子そろって、とはな」

 私は言葉もなかった。


「﨑里ちゃん、この前、母ちゃんから聞いたんやろ、父ちゃんの指向のこと。――あのさ、うちの母ちゃんってさあ、ああ見えて勘がいいんやわ。まあ、人に何かしてあげたい気持ちの強い人だから、そりゃそうかもね。びっくりするくらい、相手のことをよく見とる――そやけえ、母ちゃん、俺のこともそれとなく疑っとったんかもしれん。やけん、﨑里ちゃんを大事な人だって紹介したとき、あんなに喜んだんやないかな」

 自嘲めいた口調で言うと、トマトジュースを飲んだ。


「母ちゃんとくるみと一緒に暮らしていたころには、母ちゃんは細心の注意を払って、父ちゃんのこと、俺たちから隠そうとしとったんやろな。それは父ちゃんに対する気遣いであり、俺たちに対する思いやりやったんかもしれん。でも、それが逆に父ちゃんを傷つけていたってことも、あるかもな」


 そう言うと、口をつぐんだ。そうか、お母さんのその気配りは、お父さんを、竹史さんを追い詰めてしまっただけでなく、川野もまた、今、その記憶に悩まされているのだろう。


「……まあ、それはそれとして、母ちゃんがいたころには、気づかなかったん。でも、別居して、ばあちゃんも死んで、父ちゃんと二人暮らしになってから、なんか変やなって感じるようになった。決定的な出来事があったわけやないんよ、例えば、俺が﨑里ちゃんに手をつかまれて固まってしまったような、な」

 こっちを見て少し寂しそうに笑った。

「でも、母ちゃんを含めた、女性全般に対する言及のはしばしに、とても冷ややかなものを感じた。買い物に行ったり、レストランに行ったりしても、女性店員や女性客が近づいてくると、父ちゃんの態度が硬化した。母ちゃんと別居しても、別の女との浮いた話ひとつ、聞こえてこんかった」

「そんなの、あったとしても、子供の耳には入れないものなんじゃない?」

「そうかもな。でも、とにかく、スーパーの店員さんであろうと、レストランのウエイトレスであろうと、花屋のお姉ちゃんであろうと、父ちゃんが女に好意的な言及をしたことは一度もないん。俺が、さっきの店員さん、きれいやったよなって言っても、返事をしたこともない」


 私は思わず口をはさんだ。


「ちょっと待って、川野は、女の人のことをきれいだって思うこと、あるの?」

 川野は苦笑した。

「そりゃあ、あるわ。男であろうと、女であろうと、きれいなものはきれい、美しいものは美しいっち思うよ。﨑里ちゃんだってさ、女の子に恋愛感情を持たんかもしれんけど、それでも、きれいな女の子をきれいっち思わん? それと同じよ。やけん、﨑里ちゃんのことも美人やなっち思っとる。クラスの男子がほとんどみんな、﨑里ちゃんのこと気にしとるっちゅうのも、ようわかる」

 私は顔をしかめた。

「止めて、私の話は止めて。話が脱線してる。お父さんの話に戻って」

 川野は少し怪訝な顔をしてこちらを見たが、それでも問いただすことなく話を戻した。

「まあ、とはいえ、女に興味がないイコール男が好き、ってわけやない。父ちゃんを見てると、男に対してだって関心を持つ素振りはなかった。だから、父ちゃんはそもそも他人に興味を持たないタイプの人間なんだろうって漠然と思とった。最近までは、な」


 私はもう口をさしはさまず、川野がしゃべるのを聞いていた。

「でも、高校生の竹史と思われる“袴の彼”が﨑里ちゃんの頬に触れたこと、それに﨑里ちゃんが見せてくれた、﨑里ちゃんにそっくりなお父さんの写真に引っかかりを感じた。﨑里ちゃんが何か思いつめた様子で、男子と同じくらい髪を短くしたとき、その予感が固まった」

「私が髪を切ったときに?」

「うん。あのときは、もう、俺の目には﨑里ちゃんの思考がだだ漏れやったよ」

「そうだったの……」

 私はうなだれた。

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