第89話 一月二十六日(木)ー1 享楽的で八方美人

 早朝の弓道場で川野が弓を引く。


 あれ以降、“袴の彼”が弓道場に現れることはなかった。私は虚無感から抜け出すことはできずにいたものの、黒木ちゃんや美羽ちゃんの前では普段どおりの自分を演じられるようになっていた。私だって、少しは大人にならなければならない、そう思ったからだ。

 あの日、一瞬だけとはいえ、私は行射する川野を“袴の彼”と見間違えた。おばあちゃんの言うように、川野は公正な目で見れば、竹史さんの若いころとよく似ているのかもしれない。それよりなにより、あの日の彼の射は、“袴の彼”と一瞬錯覚させるほど、見事なものだった。成長した、そう感じた。すっかり置いていかれてしまった、そう感じた。


「あああ、腹減ったわ!」

 けたたましく叫びながら、朝練を終えた川野が教室に入ってきた。窓際の自分の席までやってくると、だらしなく椅子に座り、カバンを探る。菓子パン三つとトマトジュースを取り出した。クリームパンの袋を開け、かぶりつく。

「あいつ、もう現れんの?」

 私はうなずいた。

「あれ、お父さんの学ランやったん?」

うなずいた。

「ばあちゃん、物持ちいいなあ。それにしてもさ、﨑里ちゃん、衝動的すぎよ」

「他に、どうしようもなかったじゃない」

「そうかあ? こっちがさ、何も手出しせんで、ただ見守ってるだけやったら、もう少し“袴の彼”の寿命も延びとったんやねえ?」

 そう言ってトマトジュースを飲んだ。

「何もしない、なんて、できなかった。寂しそうな顔を見てるだけなんて、辛すぎた」

 川野は上目遣いでこちらを見る。

「うーん、そうなん?」

「逆に、川野はどうして、見ているだけなんてことができるの? 矢野くんに自分を見てもらいたいとか、知ってもらいたいとか、抱きしめたいとか、そんなこと、思わないの?」

 川野は赤くなり、トマトジュースを置いた。


「そりゃあ、思わんことはないわ、でも、できんことはできんもん。この世にはどうしたって不可能なことだってあるやろ? それは諦めるしかないやん? 矢野っちのこと、例えば俺が無理やり抱きしめることはできると思うよ、それ以上のことだって。でも、そしたら終わってしまうもん。俺はそっちの方が怖い。そんなことになるくらいなら、今までどおり、あいつが楽しそうにしゃべったり、笑ったりしちょんのを見ちょるほうがいい。たとえそれが俺に対するものやなくても」


 目頭が熱くなるのを感じた。あっと思う間もなく涙が落ちた。叶わぬ恋と当たり前のようにあきらめている川野が悲しいんじゃない。悔しいのだ。いつもバカばっかり言っている川野に、いつだって諭されてしまう、それが悔しいのだ。川野の優しさがはがゆいのだ。そう思おうとした。川野は可哀想なくらいうろたえた。

「﨑里ちゃん、﨑里ちゃん、俺また、嫌なこと言った? ごめん、ごめんな」

 その言葉にさらに涙が止まらなくなった。

「川野には独占欲がないってこと?」

「ええー? そうかな? うーん、あんなあ、俺、むしろ欲張りなんかもしれん。だってさ、自分が楽しめるもの八割に自分が気に食わないものが二割混じっとったとき、十割じゃなきゃ嫌だからって、その八割を捨ててしまうなんて、もったいねえっち思うんよ。俺は、完璧を求めてストイックに徹するより、適当に妥協して、楽しめるものは余さず満喫させてもらうほうが幸せやと思うん」

「享楽的で八方美人ってこと?」

 うつむいてしゃくり上げながらそう聞いた私の耳に、川野が小さく笑うのが聞こえた。

「相変わらず、口悪いな。でもそうな、楽しむんは大事やもん。――あのさ、この構図、あまりよろしくないんで、そろそろ泣き止んでもらえん? どう見ても、俺が泣かせたとしか見えんやん?」

「ごめん、ごめん……でも、川野が泣かせたことには間違いないもん」

「女泣かせってやつやな?」

「違う」

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