疾風
第88話 一月二十三日(月) 裕佳子と“袴の彼”
昨晩は眠れなかった。眠ろうとしても、“袴の彼”のこと、川野のこと、川野のお母さんのこと、そして川野のお父さんのことが頭に浮かび、寝入ることができなかった。朝五時に、もうたまらなくなり、頭の中がぱんぱんにむくみ、熱を帯びているような気分のまま起きだした。
朝、六時、頬を刺すような冷たい空気をたたえた未明の町を私は急ぎ足で歩いていく。街灯が薄紫色のしらけた明かりをともしている。つむじ風が時折落ち葉を巻き上げる。
渡り廊下、プール棟の階段、そして、廊下の扉を開ける。足を踏み入れる、自分の心臓の音が聞こえそうだ。わけもなく足音をひそめて廊下を歩き、自分の教室の前で、右手の窓辺へと向きを変える。窓から弓道場を見下ろす。
射場で打起しに入っているその人が見えた。空気が圧縮され密度を増していくのが見えるような引分け、緊迫と同時に解放を予期させる会、あるべき帰結としての離れ、そして残心。
違和感を感じた。違う。射が違う。これは、この射は……動揺している私の方に、その人が顔を向けた。川野だった。私のほうを向き、しばらく見つめた。私は窓辺から一歩あとずさった。そのとき、私の左手に影が見えた。“袴の彼”だった。
はっきりと私を見つめていた。見開かれた淡いハシバミ色の瞳に、緑色と褐色の斑が散っている。細い首、華奢なからだ、袴に刺繍された小嗣の文字。ゆっくりと、近づいてくる。吐息が感じられるほどの距離まで近づくと、おずおずと左手を差しのべ、私の右ほおに触れる。その手の冷たさに、この世の存在ではないと改めて感じさせられた次の瞬間、私は“袴の彼”を抱きしめていた。思いを込めて抱きしめる。彼の体がこわばったのが感じられた。深いため息が聞こえた。気づいたときには、彼は消えてしまっていた。
「﨑里ちゃん……」
背後で川野が呼び掛ける声がする。私は振り向けなかった。
「﨑里ちゃん……」
暗い声。私は頽れるようにその場にしゃがみこんだ。終わらせてしまった。確信めいた予感があった。自分で、あの、かけがえのないひとときを終わらせてしまった。自分の中に、もう、何ひとつ残っていないような気持ちがした。ただただ空しかった。虚無からは涙すら生まれないんだと知った。
「﨑里ちゃん。あいつ、行ってしまったん?」
私はかすかにうなずいた。
「そうか……」
川野が沈んだ声で続けた。
「もう、着替えといでや。他の人が来る前に。うちの学校、女子の学ラン・スラックスは認められとらんからな」
私はカバンを手にすると、のろのろと立ち上がった。
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