第87話 一月二十一日(土) 川野と裕佳子

 翌朝、私たちは朝六時に起きて、おばあちゃんの畑仕事を手伝った。

「川野、朝弱いんじゃなかったっけ? よく起きれたね?」

「さすがに人の家でいつまでも寝とられんわあ」

「章くん、よく眠れんかったんやないの?」

「いえ、熟睡しました。家におるときより、よく眠ったかも」

「それならいいけどな」

 私たちはのんびりと話しながら、おばあちゃんの畑を耕す手伝いをした。体を動かしていると、余計なことを考えずにすむ。

「﨑里ちゃんさ、朝、鏡見た?」

「見た」

「びっくりせんかった?」

「した」

 川野はくつくつと笑いながら、楽しげに言った。

「家に帰ったら、もう一回見たほうがいいわ。見事な寝ぐせやで」


 朝ごはんは川野が作ってくれた。おばあちゃんの畑の玉ねぎ、大根、ニンジンに揚げの味噌汁、ツナと小葱のたっぷり入った卵焼きと大根おろし、厚揚げとかぼちゃの煮つけ。おばあちゃんは、川野の調理の手際よさに目を丸くした。

「あら、あら、こりゃ見事なもんやな。章くん、またなしてこんなに料理できるようになったんな?」

 川野は卵焼きを巻きながら答える。

「母ちゃんが食べるのも料理するのも大好きで、俺も小学校に上がる前からよく一緒に料理しちょったんです。それに、こっちに来てからは、小嗣のばあちゃんも料理がうまかったけえ、いろいろ教えてもらいました」

 おばあちゃんは感心したように何度もうなずいた。

「たいしたもんやわ。卵焼きの巻き方なんて、ほんに見事やな。ばあちゃんもようかなわんわ」

 私も大根をおろしながら言った。

「そうなの、この卵焼き、本当においしそうだよね? 前に焼いているところを見てから、実はずっと食べてみたいなあって思ってたの。川野、ありがとう!」

「これくらい、お安い御用やわ」

 そう言うと、焼きあがった卵焼きを皿の上にすとんと載せた。湯気がもうと上がり、食欲をそそる香りが広がった。

「このお礼は、宿題の家庭教師ということで、どうかな? 金曜日に出た数学と英語の宿題、半端ない量だったよね。化学と国語も宿題あったよね」

「あー、そうしていただけると助かります……」

「じゃあ、朝ごはん食べたら、早速取りかかろう!」


 川野を支えるためと言いながら、川野だけでなく私のほうも、誰かがそばにいてくれるということに安堵していたのだろう。少しうきうきした気分でそう提案した。昨年末、二度勉強会を行った和室で宿題をするのは私自身、辛かったので、宿題は私の部屋でやった。女の子の部屋にいるということを川野が気にするかもしれないと、多少気になったが、思いのほか平気そうだったのでほっとした。

「それでも、川野を怯えさせないように、ドアは開けっ放しにしといてあげるね」

「……お心遣い、ありがとうございます。……﨑里ちゃん、それって普通、男女逆のセリフやけどな」

「川野はちょっと、男とか女とかにとらわれすぎなんじゃない? もう少し頭、柔軟にしたほうがいいと思う」

 川野はあいまいな笑みを浮かべた。

「みんながさ、﨑里ちゃんみたいに受け入れてくれればいいんやけどな」

「人の目ばかり気にして、一般常識に迎合する必要なんて、ないじゃない? 誰が誰を好きだろうと、恥ずかしがることないじゃない?」

 川野の顔がわずかに苦しそうにゆがんだ。

「俺、まだそういうふうに割り切れんわ。﨑里ちゃんの強さはどこから来てるんかな? 例えばさ、﨑里ちゃんが女の人を好きになったりとか、あるいはうちの母ちゃんと竹史をめぐって争ったりするときにでも、そういうふうに強くいられるかな? 世間のモラルってさ、その範囲内で生きてる人間にはいつでも打ち壊せる、古びた脆い囲いに見えるかもしれんけど、範囲外で生きている人間にとっては、とっかかりすら見つけられん、分厚いコンクリート塀なんよ」


 川野の言葉はときどきはっとするほど鋭い。それは傷つきながら生きてきた人だけが知る真実なのかもしれない。それに比べれば、私の考えなんて、所詮、机上の空論だ。黙するしかなかった。 口をつぐんだ私を見て、川野が顔を曇らせた。

「ごめん、俺、また偉そうなこと言った」

 そう言うと、数学の宿題を解き始めた。


 夕食は川野に教えてもらいながら、私も手伝った。協同作業は苦手なんて言っていた割に、教え方がうまい。さりげないサポートが絶妙で、まごまごしていた私をうまく使いながら、タラモサラダ、鶏天、大根と小エビの炒め煮、ワカメとタマネギ入りかきたま汁を一時間ほどで作り上げた。

 にこにこしながら何度か台所をのぞきに来ていたおばあちゃんが、章くんがうちにずっといてくれたら、おばあちゃん、いつも美味しいものが食べられるのにな、と私をからかった。


 その日の夜、私の気分は沈みがちだった。明日になれば川野は家に帰る。川野の恋も、私の恋も、状況はなにひとつ変わっていない。明日になっても、明後日になっても、変わることはない。ただ、時が全てを色褪せさせるのを、目をそらすこともできず、見つめ続けなければならない。川野の支えになりたいなんて言っておきながら、私はなにひとつ、できていない。自分の気持ちの制御さえ、できていない。情けなかった。

「ほらあ、﨑里ちゃん、また、ふさぎこんどる」

 川野の声に、おばあちゃんもこちらを見る。

「裕佳子ちゃん、どうしたん? 疲れたん?」

「﨑里ちゃん、しょっちゅうこうなんですよ。まじめすぎるから、何か考えごとを始めると周りが見えんくらい夢中になる」

「裕佳子ちゃんくらいの年頃やったら、悩みも多いやろうからねえ。でも、こげなふうに、心配してくれるお友達がおるんは心強いことやな。章くんも同い年やろうに、ずいぶんしっかりしちょんなあ」

 川野が不敵な笑みを浮かべてこちらを見た。

「俺の方が年上ですから、半年だけ」

 私は思いっきりにらんだ。

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