第86話 一月二十日(金)ー3 川野の恋ばな

 私は両てのひらで座卓を軽く叩いた。

「はい、川野、私の恋ばなは終わり。次は川野のね」

「ちょ、ちょっと、﨑里ちゃん、俺の失恋はまだ傷からどくどく血が出ている最中なんよ? そこに塩塗りこんでくれるの?」

「最初は痛いかもしれないけれど、荒療治が効果的、ってこともあるからね」

「ひどい!」

 言葉とは裏腹に、川野は微笑んでいる。

「矢野くんのどこに惹かれたの?」

 川野はさらに笑みを深くして、照れたように言った。

「笑い顔、かな? すごく柔らかに笑うんよな。無邪気で、屈託なくって、見とるだけであったかい気持ちになれる」

「うん、わかるよ、それ。勉強会のお礼を言ったときに見せてくれた笑顔、くらくらするくらい魅力的だった。あと、手もきれいじゃない? 指がすっと長くって、爪の形も整ってて、繊細そのものって感じ」

「さすが女子はよく見とるよな。でも、そうなん、矢野っちの手も好きやったな。ノートを取る手、靴ひもを結ぶ手、スケッチする手、何度も目を奪われそうになって焦ったな」

「いつから好きだったの?」

「はっきり意識したんは、去年の春の連休明けかな。一緒に日直をやったことがあったん。そのとき、ほとんど初めてしゃべった。ほら、矢野っち、緊張すると、どもるやん? それを恥ずかしがって、ほとんど人と話をせんかったんよ。まあ、今でもあまり変わらんけど。俺も、その日直の仕事で初めて矢野っちとしゃべったくらい。俺は一学期からこの調子やったから、矢野っち、初めは俺のことを怖がっとったみたいで、何か話しかけても真っ赤になるばっかりやった。でも、ふたりでクラス全員分の課題ノートを職員室に持って行った帰り、渡り廊下んとこにネコがおったんよ」

「ネコ?」

「うん。ネコ。毛並みの綺麗な三毛猫が座っとった。外から入ってきたんやろな。そのネコを見た途端、矢野っちがふわっと笑ったん。周りを照らし出すような笑顔で、どきっとした。こんなにきれいな笑い方をするやつがこの世におるんやって驚いて、目が離せんようになった。ネコ好きなん? って聞いたら、こっちも見ずに、うんって言われて。俺がいるのなんて忘れたみたいに、しばらくネコの頭やのどを撫でてた。本当は数秒だったんだろうな、すぐ我に返って、こっちを見て、真っ赤になって。俺が、ネコ可愛いよな、俺もネコ好きやわ、でもアレルギーなんよって言ったら、ごめんねって、焦り始めて、さらに真っ赤になってしまった。それから、かな」

「矢野くんらしいエピソードだね。その光景が目に浮かぶよ。あの笑顔は無敵だよね。でも、私が二学期にこっちに来たときにも、矢野くんは川野や村居くんのグループには入ってなかったじゃない? お弁当は佐藤くんたちと食べてたし。どうして仲間に入ってもらわなかったの?」

 川野は赤くなって口ごもった。

「で、できねえよ、そんなこと。遊びに行こうって佐藤が声をかけてくれたときに、ときどき誘ってみるので、精いっぱいやった」

「佐藤くんが声をかけたとき?」

「佐藤と矢野っちは、小学校のときからの同級生なん。矢野っちも、佐藤がいると少しだけリラックスしていたから」

「あ、じゃあ、あのとき、秋にジョイフルで会ったとき、あのときも矢野くんを誘ったのは川野だったの?」

「うん」

 川野は照れたような顔になってうつむいた。私は胸がいっぱいになり、何も言えなくなった。

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