第83話 一月十九日(木)ー3 川野と裕佳子
一時間目の英語が終わるなり、川野ががばりと後ろを振り向いて、言った。
「﨑里ちゃん、どうしたんよ? 朝、俺が来てから今まで、少なくとも十二回、ため息ついたで。十二回! そんなにため息ばっかついとったら、運に逃げられるで。せっかくさあ、また近くの席になれたんやけん、楽しくやろうや」
そう言って笑う。私が言葉を失っていると、隣の奥野くんが下敷きで胸元をパタパタあおぎながら、にやにやして言った。
「川野、あっついなあ。あつすぎるわ。真冬やのに、俺、暑くてたまらんわ」
「ん? 窓開けてやろか?」
「やめろ!」
川野が笑う。
「川野、私のため息、数えてたの?」
「うん」
「暇人……」
「だって、後ろでずっとはあはあ言われたら、気になるんやもん」
私は顔をしかめた。
「今日、﨑里ちゃん、忙しい? 急がんかったら、夕方一緒に帰ろ?」
「いいよ」
「あっついわあ!」
やけくそのように、奥野くんが言った。
夕方の乾いた北風に吹かれ、川野は自転車を押しながら私の横をゆっくりと歩いている。私は相変わらずどんな言葉を掛けたらよいのかわからず、黙って歩く。
「﨑里ちゃんさあ……」
川野が口を開いた。
「元気出してよ」
思わず足を止め、まじまじと川野の顔を見た。
「﨑里ちゃんが沈んでると、俺も悲しくなるわ。だからさ、元気出してな」
慙愧、羞恥、憤懣、いくつもの感情が渦を巻き、私の理性を押し流した。
「どうして、どうして川野はそうなの!? 苦しいのは、悲しいのは、私じゃなくて川野のほうでしょ? どうして川野が私を慰めるのよ!」
「えー……」
「私じゃ頼りにならない? もっと、もっと、私を信頼してよ。ひとりぼっちで苦しむのは止めて。もっとつらい気持ちを吐き出して、私にも共有させてよ。川野の役に立ちたいのに、川野は私に何も言ってくれない。私のことをぜんぜん信用してくれない!」
川野はあの泣き笑いのような笑みを浮かべ、言った。
「﨑里ちゃんさあ、わかっとらんのやな。俺、もうずっと、﨑里ちゃんに助けられとるのに。ほかの誰ひとり理解してくれなくっても、﨑里ちゃんだけは、俺を否定もせず非難もせずに受け止めてくれる、そう思えることが、何より大きな支えになっとるんよ。……もちろん悲しいし、苦しいし、辛いし、悔しいし、こんな自分が情けない。恥ずかしい。この先、俺が誰かと恋愛できるなんて、ありえんって思うと、すうっと体の底が冷めて、死にたい気分になる。でも、わめいたって、どうにもならんもん。逆に、わめかなくったって、こうやって﨑里ちゃんと他愛のない話をするだけで、苦しい気持ちを忘れていられる。なんちゅうんかな、縁側でネコを膝にのせて日向ぼっこしてるみたいな感じ?」
「……川野、ネコ好きなの?」
「俺、動物アレルギー」
私は小さく噴き出した。
「あ、動物アレルギー、なめたらいけんよ。結構辛いんやけえ。ネコのそばに行くだけで、くしゃみ連発、鼻水ずるずる、目はかゆいし、腫れてくるし……」
「近寄らなきゃいいじゃん」
「でも、ネコ、嫌いじゃないんよ」
「困ったね」
「困っちょる」
私たちは歩き始めた。川野がぽつりと言った。
「あのさ、もし、﨑里ちゃんが俺に何かしてくれるっちゅうんなら……」
私は意気込んで聞き返した。
「うん、なに?」
「明日、うちに泊まりにこん? 父ちゃん、明日から三日間、出張でおらんの」
「……川野、それって、ほかの人に聞かれたら、間違いなく誤解されるセリフだよ」
「正直言って、夜、家にひとりっきりでいるのを想像すると、怖くなる。夜中じゅう、町中を歩き回ろうかとか、マンガ喫茶に行こうかとも思ったけど、﨑里ちゃんがいてくれるなら、そのほうがずっといい」
さすがに、すぐに、うんとは言えなかった。おばあちゃんへの言い訳を思いつかない。でも、川野のつらい気持ちはよくわかるし、何より、初めて川野が私を頼ってくれたことが嬉しく、断りたくはなかった。
「そうだ、川野がさ、うちに泊まりにこない? それなら、おばあちゃんも許してくれるだろうし、喜んでくれると思うんだ。賑やかなの、好きだから」
「ほんとに、いいん?」
「うん。何なら、今、うちでおばあちゃんに許可もらおう?」
「うん……ありがとな」
帰宅すると、川野を連れて家に上がり、おばあちゃんに相談した。おばあちゃんは、最初、目を丸くしていたが、私の、
「小嗣竹史さんの息子さんで、章くんです。私にとって友達以上恋人未満の、大事な親友です」
という紹介に、あらまあ、あらまあ、と嬉しそうな、懐かしそうな顔になり、
「高校生にふさわしくない行いは、絶対にしません、誓います」
という川野の律儀な言葉に笑顔になり、深く詮索することもなく、二泊の宿泊を許可してくれた。
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