第81話 一月十九日(木)ー1 “袴の彼”ー12

 川野は朝練に来なかった。朝練と言ったって、部活の正式な活動でもなければ、私ときちんと約束を交わしているわけでもない。来るか来ないかは彼の気分次第だ。それでも、昨年の九月に朝練を始めて以来、木曜日の早朝に彼が現れなかったことは、これまで一度もなかった。


 “袴の彼”は全く気にする様子もなく行射している。足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残心……。途切れることなく続けられる射。不要なものを極限までそぎ落とし、磨き上げられた射。それを見ているうちに、いつしか、川野のことも、黒木ちゃんと矢野くんのことも、川野のお母さんのことも、お父さんのことも忘れ、“袴の彼”が作り出す世界に入り込んでいた。どうして彼の射にはすべてを凌駕する凄みが感じられるのだろう。彼が胴造りから弓構えに進むと、あたりの物音が消える。弓構えから打起しに進むと、目に見えていたものも消える。周囲が一切消えてしまった空間で、弓はゆっくりと引き分けられ、時の最後のしずくが落ちると同時に、矢が放たれる。嫋々たる余韻。私の周りからも一切が消えてしまった。どんな悩みも苦しみも喜びさえもなく、ただ射を続ける“袴の彼”と私だけがいた。


 ふと、世界に音と色が戻ってきた。“袴の彼”の稽古が終わったのだ。“袴の彼”が目を上げた。はっきりとこちらを見ている。ハシバミ色の瞳が何か言いたげにこちらを見つめ続ける。こんなにまじまじと見つめられるのは、初めてのことだった。私はどうしたらよいかわからず、焦りに頭の中が熱くなった。しばらくこちらを見つめていた“袴の彼”は、しかし、視線を落とすと身をひるがえし、射場の奥へと去っていった。

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