第80話 一月十八日(水)ー2 川野の恋
「おーい、﨑里ちゃーん?」
気づくと、川野が不審げな表情を浮かべて私の顔の前で手を振っていた。
「あ、ああ、何?」
「あ、生きてた。どうしたん? ずいぶんぼうっとしてるやん。昨日寝てないん?」
「ううん、そんなことない。大丈夫、もう大丈夫」
「そう? 今日さ、時間ある? 良かったら、部活終わるまで、待っとっちくれん?」
「今日? いいよ」
人の少なくなった放課後の教室で、英語と数学と社会の宿題を順に片付けた。学校でやると、家よりもはかどる気がする。日直の二人と、おしゃべりに花を咲かせていた女子三人グループも帰ってしまい、教室には私ひとりになった。さて、あとは何をしよう? 机から顔を上げながら伸びをすると、矢野くんが教室に入ってきた。
「あ、矢野くん……」
気まずくて、それ以上言葉が続かなかった。
「さ、﨑里さん、ま、まだ残っていたんだ」
「うん、川野の部活が終わるのを待ってるとこ。矢野くんこそ、珍しいよね、この時間まで残ってるなんて」
矢野くんは赤くなった。ああ、そういうことか、黒木ちゃんは料理同好会に入っていて、今日、水曜日は活動のある曜日のはずだ。
「と、図書館で調べ物をしてたら、お、遅くなって……」
そう言うと、机から荷物を取り出し、そそくさといなくなってしまった。黒木ちゃんの部活が終わるまで、まだ三十分はあるのに、どこで待つんだろうとちょっと心配になった。
「ごめん、お待たせ、終わりました!」
川野が教室の扉から上気した顔をのぞかせる。
「話って?」
「うん、時間もったいないけん、帰りながら話そ」
教室の電灯を消し、プール棟の階段を降り、渡り廊下を通って玄関へと向かった。靴を履き替え、暮れなずむ構内を駐輪場に向かう。波トタンの屋根のせいであたりよりひときわ濃い影に包まれた駐輪場に数人の人影が見えた。自転車を出しては、次々と走り去っていく。駐輪場にまだ残っている人影のなかに見知った姿が見えた――まずい! どうしよう!――でも、もうどうしようもなかった。気まずそうな顔でそろってこっちを見ていたのは、矢野くんと黒木ちゃんだった。
「おおっ? 矢野っちと黒木ちゃんやん? 何しよるん? え、だって、矢野っち、部活には入っとらんかったよな?」
矢野くんがどもりながら口を開こうとすると、それを遮るように黒木ちゃんが言った。
「実は、私たち、付き合い始めたん」
「……」
夕闇に紛れ、斜め後ろから見る川野の横顔ははっきりと見えなかった。肩がこわばったのだけがわかった。
「なんか照れくさくって、まだ美羽と裕佳子ちゃんにしか、言っとらんかったんやけど……」
「そ、そっか。そうか、めでたいやん! 矢野っち、やるやん。黒木ちゃんの包容力と矢野っちの頭脳があれば、これは最強カップルやな!」
「川野、それ、私が太っとるってこと?」
「あは、違うよ、それは被害妄想! とにかくおめでとさん。﨑里ちゃん、邪魔ならんうちに、帰ろ? じゃあ、また明日な」
自転車のチェーンキーを外すのに手間取っていたのは寒さのせいではなかっただろう。
私たちは私の家に向かって歩いていた。川野はずっと口をつぐんだままだ。帰路の半ばまでやってきたとき、私は思い切って口を開いた。
「川野、何かしゃべって? 話があったんでしょ?」
「……うん、でも、今日はいいわ。また今度にする」
そして、また黙り込んだ。
結局、そのあと一言も口をきかないまま私の家の前にたどり着くと、川野は自転車に乗って帰ろうとした。私はその背に話しかけた。
「川野、今日はお父さんは?」
川野は背を向けたまま答えた。
「父ちゃん? 今日は早上がり」
「じゃ、もう家にいるのね? 大丈夫だね?」
「しょわねえ(大丈夫)。じゃあ、また明日な」
川野の自転車のライトはすぐに闇にとけこんで見えなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます