第77話 一月十五日(日)ー5 真弓と竹史ー2

「……竹史にしては迂闊なことやな。あのひと、もう、自分を守ろうともできんくらい、疲れ切ってしまったんかな。……女性が苦手。……そう。裕佳子ちゃんの勘は間違っとらん。あのひとは悪い人じゃない、むしろ、誠実で、まじめそのもので、信じられんほどストイックで、尊敬できるところ、信頼できるところがいっぱいあった。でも女性を愛せん人やった」


 明言されるまでもなく、もう、ほぼわかっていたことだった。それでも、声をひそめて疲れたように語る川野のお母さんに、私は動揺させられた。


「はは、こんなこと、ぺらぺらとしゃべるもんじゃないよね。でも、裕佳子ちゃんがもうそこまで勘づいてしまっているんなら、それに、今後、章を介して竹史と関わることになるんなら、むしろ、先に私の口から知っといてもらったほうがいいかな」


 そう言うと、冷めてしまった紅茶をひとくち飲んだ。


「退院後の、そのお礼とやらのときに、断られたんよ。これだけお世話になっておきながら申し訳ないのですが、僕はあなたを幸せにできません、僕があなたを愛することはありえず、だからやはりあなたと結婚するわけにはいきません、って。その答えと、あの日のいかにも奇妙なふるまいで、私にも、この人は私というより女性全般を拒絶しとるんやないかって想像がついた。想像やけどね」


 私の顔を見てかすかに笑った。


「でも、その顔が、虫垂炎の時以上に、とにかく辛そうやったもんやから、つい、こう言っちゃったんよ。ひとさまにこれ以上幸せにしてもらわなくても、私は十分人生を謳歌しています。だけど、社会で波風立てずに生きていくためには、どうやら結婚という事実が必要そうなんです。あなただって、まがりなりにもお見合いの席にまでいらっしゃったということは、名目上の結婚に何かメリットがあるんじゃないんですか? お互いビジネスと割り切って結婚してみませんかってね」


 川野のお母さんは紅茶のカップを両手でもてあそんでいる。オフホワイトのカップが両手の中でほんのりと光を放っているように見えた。


「あの人は黙っとった。ま、いつもポーカーフェイスやけど、そんときは、本当に、どう思っとるのか、まったくわからんかった。

 だから、ずばり、言い足してみたん。女性がお嫌いだというなら、私はそれでも構わないんです。女性として愛してもらうことなんて求めません。でも、この世に女性が存在することに耐えられないほどじゃないんでしょ? それなら、既婚という旗を世間に振りかざして見せるために、同じ家で暮らし、同じテーブルで一緒にご飯を食べる、それだけのための同居人がいてもいいんじゃないですか?」


 口を挟まずにはいられなかった。


「真弓さんは、お母さんは、それでよかったんですか?」

 ふっと口元を緩めた。

「そう、そのときはそれでいいと思っとった。年齢的に、打算的な気持ちがあったのも大きいな。このチャンスを逃したら、きっともう一生結婚は無理やなってね。でも何より、この暗い目をした人から、少しでも重圧を取り除いてあげたい、守ってあげたいっていう気持ちがあったんよ」

「社会的な隠れ蓑として……」

「まあ、平たく言ってしまえば、そういうことやね、もちろん、お互いに、ってことやけどな。やけど、なんやかんや言って、もうそのときには私のほうが竹史に惹かれていたんやと思うわ。自分がこんな、ちゃらんぽらんな性格やから、落ち着いた思慮深そうな雰囲気に飲まれてしまったんやろうね、きっと」

 そう言って、照れくさそうに笑った。


「竹史さんだって、たとえ女性として愛せなくても、真弓さんのことを必要だって感じていたんじゃないですか?」


「そうなるやろうって期待しとった。今、必要と感じてもらえんでも、一緒に暮らしていれば、いずれは、自然と情も移るやろうってね。やから、これでもいろいろ気を遣いながら努力したんよ。うるさがられんように、でも陰でしっかり支えてあげようってね。

 やけど、あの人が私に心を開いてくれることは、最後までなかった。とにかく、すべてを一人で抱え込んでしまい、何を抱え込んでいるのかすら、見せてくれんの。これじゃ、打つ手はなしよ。

 今考えると、それがあの人なりの、私に対する気遣いやったんやろうな。でも、苦しみでうなりながら歯を食いしばっている人に、自分が差し出した手を無視されるのは、辛いもんやった」


 その気持ちはよく分かった。両腕を広げて飛び込んでくるのを待っているのに、傷だらけの姿でよろよろと身をかわされたときの、やるせなさ。


「章が小学校二年生の時に、小嗣のお義父さんが亡くなったん。お義母さんをひとりにはできんから家に帰らんといけんようになったんやけど、そのころ私はもう疲れ果ててしまっていたんよな。いつだって準備万端にしとった自分の愛情の蛇口が、もう十年間も閉められっぱなしやったことに。それで私は福岡に残ったん。竹史と私が分かり合えることは、結局、いちどもなかったな」


 抗いたかった。何に対してなのかわからないまま、私は抗うようにつぶやいた。


「あの、でも、章くんとくるみさん……」


 川野のお母さんは、一瞬、怪訝な顔をしたが、すぐに、ああ、と小さく笑い、言った。

「高校生の裕佳子ちゃんにこんな話をするのは気が引けるけど、まあ、章がいたら、絶対言えんもんな。あんな、たとえ指一本触れられん夫婦でも、子供は作れる。うちは川野の家に竹史が入ったもんやから、竹史は私の両親に孫の顔を見せることがこの契約の一大責務やと感じとったみたい。ああ、でも、章のことは、可愛がっとったんよ。あのとおり無表情だから、小さい頃の章は怯えて、父ちゃんに近寄れんかったんやけど、今思うと、愛されとることはきちんと伝わっとったんやな」


 私は言葉を失った。

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