第76話 一月十五日(日)ー4 真弓と竹史ー1
その言葉に川野のお母さんの表情が少しこわばった。私は急いで言い添えた。
「章くんは、いつもお母さんのことを自慢していました。今日、初めてお話させてもらったばかりなのに、私も、あったかく包み込まれるような安心感を感じました。なんて魅力的な方だろうって思ったんです。それなのに、どうして、結婚がうまくいかなかったんだろうって……あの、私、母が亡くなっているので、こういうことを心置きなく尋ねられる人生の先輩がいないんです」
お母さんは私の顔をまじまじと見ると、小さく笑って言った。
「うーん、まあ、言ってしまえば、竹史――あの人の支えになろうなんて、しょせん私には無理やったって、ようやく気付いたってことかな。よくある話。おばちゃんの失敗譚を聞いたって、あんまり楽しくないかもよ」
私はさらに言った。
「章くんのお父さんには去年一度お会いしました。あまりお話してもらえませんでしたけど。でも、支えになるって、どういうことですか?」
お母さんはさりげなく目を伏せて紅茶を飲んだ。
「あら、ま、竹史にも紹介済み? これは、章、本気やな。でも裕佳子ちゃん、怖くなかった? あの人、そうとう愛想なしやろ」
「はい、正直言って、かなり怖かったです。何だか拒絶されてるみたいで。でも、すごく寂しそうなのが気になって。真弓さんなら、竹史さんとやっていけそうなのに。そもそも、どうやって知り合ったんですか?」
遠くを見るような目をして、語り始めた。
「最初は、知人を介してのお見合い。私、三十歳過ぎてて、本人より周りが焦り始めてたん。誠実な人だから、ぜひ会いなさいって勧められて、お見合いしたんよ。と言っても、そんな本格的なんやなくて、いわゆる仲人さんたちと竹史と四人で喫茶店で会って、そのあとふたりで散歩に出かけたんよね」
「それは福岡でですか?」
「そう。そのころ竹史は福岡の半導体メーカーで働いていて、私は看護師やった。竹史はずっと怖い顔で黙っていて、こりゃ、断られるなって思ったけん、こっちもやけくそでさ、それなら楽しんじゃえ、って、こっちのペースで行きたいところをあちこち引っぱりまわしたわけ。展望塔に昇り、市場やデパートを連れまわし、映画を見て、夜になってちょっとしたレストランに入った。そしたら、初めて口を開いた」
「えっ? それまで、ひとこともしゃべらなかったんですか?」
「そう。あ、もちろん、はいとかいいえは言っとったけどね。で、そのレストランで目をそらしたまま、申し訳ないです、って言われたん」
「申し訳ない?」
「うん。やから、断れずに見合いに来たものの、いよいよ断っとるんやなって思って、ですよね、こんながさつな女ですもん、断りますよねって返事したんよ。そうしたら、また黙っちゃった。困ったなあって思って、しばらく目をそらしとったんやけど、ふと見て、びっくりしちゃった。真っ青な顔をして顔をしかめているんよ。慌てて、気分悪いんですか、どこか痛いですか、トイレ行きますか、って聞いたら、首を横に振るん。やけど、冷や汗をかいてかなり具合悪そうやったから、とりあえずお店の人に、奥で少し横にならせてもらえないかってお願いしたんよ。でも、もうふらふらで危なっかしくって、見ていられんようになって。やから、抱きかかえようとしたわけ」
「抱きかかえる?」
「そう。見た感じからして、どうせ五十キロそこそこやろ、私なら抱え上げられる、って思ってさ。それで背中に手を回した途端、突き飛ばされたんよ」
「突き飛ばす?! 体調悪いのに?」
その瞬間、射場で私の手を邪険に振り払った“袴の彼”のこわばった表情がよみがえった。あれは私を容子と間違え、彼女への絶ちがたい恋慕を吹っ切るため、無理に荒々しく振舞ったのだとばかり思っていたけれど、容子とはまったく似ていない真弓さんに対しても同じ行動をとっていたのなら……。
「そうなんよ。私はしりもちをつくし、本人はそれで力を使い果たして、うずくまっちゃってね。仕方ないけん、抱きかかえるのは止めて、肩を貸すようにして連れて行ったわけ。結局、しばらく横になっても調子はよくならず、タクシーで病院に連れて行ったら、なんと、急性虫垂炎、盲腸やった」
「盲腸? ということは、ずっと痛いのを我慢していたってことですか?」
「そうやったみたい。ひとことも言わずにな。しかも、腹膜炎の一歩手前やった。もう、本当にあの人らしいことよ。こっちは行きがかり上、何かれ入院にかかわるお世話をしたんやけど、無事退院したあと、お礼が言いたいって呼び出されたん。見合いの正式な返事もまだやったし、ああ、お礼ついでに断る気やなって思ってたん」
お母さんはそこまで話すと、ふいと口を閉じた。我に返り、しゃべりすぎた、この先どうしようかと逡巡しているようだった。私は促した。
「それでも、介抱しようとしてる方を突き飛ばすって、穏やかじゃないですよね。少し、変じゃないですか? 確かに、女の人に男の人が抱え上げられるなんて、男の人にとっては屈辱的なのかもしれません。でも、初対面の女性なのに……。男の人って、男であるというだけで、そこまでプライドが高いものなんでしょうか?」
お母さんは真顔になって、私を見た。
「裕佳子ちゃん……」
「……あの、実は、私……私も一度手を振り払われたんです」
その言葉に、川野のお母さんは厳しい顔つきになって問い返した。
「手を? 竹史に?」
「はい、えっと、あの、おうちにお邪魔してるときに、お父さんが躓いて、私がとっさに腕を支えたんです。そうしたら、すぐさま、すごい剣幕で振り払われました。ものすごく、不快そうな素振りでした」
“袴の彼”の、それに川野の素振りを思い出しながら、話を作った。
「そう……」
顔を曇らせて、小さくため息をついた。
「今のお話聞いていたら、そのときのことが思い出されて。……あの、あの、私の単なる思い過ごしなのかもしれませんが、単刀直入にお聞きします。その、竹史さんは、女性が苦手なのではないですか?」
苦しそうな表情になった。
「体を触られることにことさら嫌悪感を抱く、それには、例えば、神経質だからとか潔癖症だからという理由もあるかもしれません。でも、あのとき、拒絶とともに私に向けられた表情に、それでは説明がつかないものを感じたんです」
しばらくの沈黙ののち、川野のお母さんは深いため息をもらした。
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