第72話 一月十二日(木) 川野
今でも、“袴の彼”を微笑ませたい、笑わせたい、と願っていた。でも、私には手立てがなかった。彼が一体何を考えているのか、何を求めているのか、まるで分らなかった。何かできることはないのか、してあげられることはないのか、それを考えては思いにふけることが増えた。
頬杖をついて窓の外を見るともなしに見ていると、前の席の川野がこちらを振り返った。
「﨑里ちゃん、また、何考えこんどるん?」
「うん……」
「またあいつか? “袴の彼”んことか?」
「うん」
鼻にしわを寄せるようにして言う。
「かあっ、妬けますなあ。そんなに思われて、あいつ幸せもんやなあ」
「私がずっと思い続けているってこと自体、“袴の彼”には伝わっていないもん。何かしてあげたいのに、苦しそうな姿が楽になるよう支えてあげたいのに、私には何もできない。苦しいよ」
川野は真顔になり、ためらいがちに言った。
「あのさ、﨑里ちゃん、誰かに何かやってあげたい、っていうの、優しさでもあるけど、実はそれって、自己中とも言えるんやない?」
「え?」
「だってさ、それって、自分が何かしたことで相手が変わるのを見たいって期待があるんやねえ? もし、してあげたことで、相手が全く変わらんでも、それでも満足できる? これはまだ足りんのやないかって思って、自分が想定した変化が起きるまで、何かし続けようって、思うんやない? だいたい、してあげたい、っていうのは、﨑里ちゃんの願望やろ? それを達成したいっていうのは、ちょっと間違ったら自己満足なだけやわ」
そんなこと、考たことがなかった。そのとおりなのかもしれない。私は自分のために“袴の彼”を笑わせたいだけなのかもしれない。ちょっとショックだった。でも、だからと言って、この衝動を抑えようという気持ちにはなれなかった。うつむいた私を見て、川野はちょっと焦り、ごめん、言い過ぎたわ、ごめんと繰り返した。
「裕佳子ちゃん、また固まっとるよ!」
はっと我に返ると、黒木ちゃんがプチトマトをフォークにさして、こちらを見つめていた。
「どうしたん、裕佳っち? 今日はずいぶん沈んでるやん?」
美羽ちゃんもベーグルサンドをかじりながらこっちを見ている。
「今日は寝不足で、ずっと頭がぼうっとしてるみたい。ごめん、心配ないよ」
私は笑ってみせると、おにぎりを食べた。
放課後、カバンを持ち上げた私に、川野がちょっと、と手招きし、廊下にいざなった。
「あのさ、今週の日曜日、暇?」
「特に用事はないけど」
「母ちゃんが福岡から来るんよ、一緒に会わん?」
「お母さん?」
「うん。……﨑里ちゃん、どうしても“袴の彼”の謎を解く手がかりがもっと欲しいんやろ? でも、﨑里ちゃんのお父さんには聞けんし、うちの父ちゃんにも聞けん。あと竹史をよく知ってるとなると、もう、うちの母ちゃんくらいやろ? まあ、母ちゃんの知ってる竹史の年代と“袴の彼”の年はちょっとずれるけどさ、何かヒントが得られるかもしれんやん?」
「そうかもしれない。でも、せっかくのお母さんとの面会なのに、私がお邪魔してもいいの?」
「大歓迎ですよ」
「ありがとう」
「じゃ、そういうことで、日曜日な!」
川野は片手をあげると、部活に向かっていった。
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