難路

第70話 一月十日(火)ー1 “袴の彼”ー11

 三学期が始まる。冬は好天が多いこの地方に珍しく、朝から雨が激しく降っていた。革靴を濡らしたくなかったので、先日買ったくるぶし丈のレインブーツを履き、大きめの水色の傘をさして暗闇に沈む町を抜けて学校に向かった。


 傘を傘立てに立て、上履きに履き替える。レインブーツは正解だったが、靴箱に入れづらいのが難点だ。教室に向かう渡り廊下のすのこも濡れていて、上履きが滑りそうだ。プール棟の階段も屋根付きの外階段なので、雨がときおり降り込んでくる。うす暗い階段を足でさぐりながら上がり、二階の扉を開けた。二週間ぶりのにおい。たった二週間いなかっただけなのに、懐かしくてたまらなかった。


 廊下は真っ暗だが、窓の並ぶ右手はほのかに明るい。一番奥の教室の前まで来て、私は荷物を持ったまま、窓から弓道場を見下ろした。そしてほっとした。練習している。こんな雨の中でも顔色一つ変えていない。


 跪坐から立ち上がり、行射に入る。改めて、それぞれの所作が川野よりも悠然としていることに気づく。それにもかかわらず、川野よりもはるかに緊迫感を感じさせるのはなぜだろう。

 “袴の彼”は川野以上に細身だ。射の安定感や美には、ある程度の肉付きがあるほうが有利に働く。彼の頼りなげな首筋や腕は、本来、射の安定性にも、見るものへの安心感にも不利に働くだろう。それにもかかわらず、貫禄と言えるほどのゆるぎなさを感じさせるのはなぜだろう。


 一射。わずかに的から逸れた。再び跪坐し、乙矢を握り替え、つがえる。立ち上がり、足踏み、胴作り……。きりきりとゼンマイを巻き上げるように緊張感が高まっていく。弓を構え、引き絞り、張りつめて静止。すっと矢が放たれた。的中。私は思わず大きく息を吐いた。つい息を止めて見ていたらしい。私ひとりのために準備されたこのスクリーンの前から離れるのはしのびなく、私は二十分間、まじろぎもせずに見つめていた。

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