第66話 十二月八日(木)ー1 川野と“袴の彼”

 あたりがようやく白み始め、弓道場に現れた川野が、手を振りながらプール棟二階の窓辺に立つ私に挨拶してくる。口がおはようと動いている。私も窓から手を振り返す。川野から数歩脇正面寄りの位置で、今日も“袴の彼”が無言で練習をしている。川野が弓に矢をつがえる。立ち上がり、きりきりと引き分け、その緊張の頂点で、熟した果実がおのずと落下するような自然さで矢が放たれる。


 川野の射はずいぶんと変わった。見違えるように美しくなった。力みが感じられなくなり、何というか、そう、優雅なのだ。


 弓を引き分けるには、実際、相当な力がいるという。でもその込められているはずの力を感じさせない。ひとつひとつの動作は、今はまだバリの残る粗削りな歯車で、組み合わさるときにかすかな軋みを立てているものの、そう遠くない将来、それもすっかりそぎ落とされて研磨され、滑らかにかみ合うようになるのだろう。優雅さに流麗さが加われば、きっと、川野の射は妖艶になるのだろう。


 二射とも、わずかに的から外れた。私は的中率なんて気にならなかったが、川野はわずかに頭を揺らした。矢を回収し、もう一度矢をつがえようとする。綺麗だ。私が見惚れていると、“袴の彼”がすっと川野の後ろに歩み寄り、もう以前から数度あったように、背後から川野の両手に自分の両手を添え、型のぶれを矯正した。一瞬、川野が静止する。重ねられたふたりの手が、ひとつ、ひとつの所作を確認するかのように、動いては、止まり、動いては、止まる。二人はゆっくりと弓を引き分け、ゆっくりと矢は的を狙う。ふっと放たれた矢は吸い寄せられるように的を射ぬいた。もう一度。スローモーションで二人羽織の射が繰り広げられた。これも的中。残心。“袴の彼”が一歩だけ後ろに退き、遠い目で川野を見つめた。

 そのとき、私は強い嫉妬を感じた。それが川野に対してなのか、“袴の彼”に対してなのかはわからなかった。


 しばらく放心していた川野が、突然、はじかれたように背後を振り返る。左右のこぶしが握りしめられた。何か言っているようだけど、こちらまでその声は届いてこない。心配になって、急いで窓を開けた。それでも声は聞こえない。と、そのとき、川野がこちらを振り向いた。泣き笑いのような笑顔を浮かべている。そして小さく手を振ると、更衣室に駆け込んだ。射場にはもう誰もいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る