第64話 十一月十五日(火)ー2 小野先生
抽出管の水位が再びじわりと上がっている。もうすぐ側管をぐるりと通って、丸底フラスコに落ちるはずだ。私はソックスレーから目をそらさず、先生に言った。
「先生、目に見えないものでも、写真に写るってこと、ありますか?」
先生は目を上げてこちらを見た。
「あるよ。人間の目が感知できなくても、カメラが感知できるシグナルはいくらでもある。例えば、赤外線カメラってあるやろ? あれは物体が発する赤外線を感知して画像にするんやけど、人間の目には赤外線は見えない。赤外線カメラを使うと、暗がりにいて人間の目には見えない動物なんかを写しだすことができる」
「そういう特別な装置じゃなくて、例えばスマホのカメラだったら?」
「写せないとは言えんな、スマホのカメラの受光部に詳しくないけん、断言できんけど。とにかく、人間の目に見える、見えないと言うのが、カメラに写る、写らないの絶対的な基準になんて、ならんっちこと」
「そうなんですね……」
ソックスレーは再び抽出管の緑色の液体を丸底フラスコへと還した。私はそれを見届けてから、先生に目を向けた。
「じゃあ、誰かの目には見えるけれど、他の人の目には見えないってこと、ありえますか?」
先生はちょっと考えてから、言った。
「それは、厳密な意味ではありえるけど、それが﨑里の質問の答えになるんか、わからんな。まず、視力やな。例えばさ、視力の超いいやつなら満天の空にみえる夜空も、俺が眼鏡をはずしてみたら真っ暗闇やということもある。それから色覚。色覚異常って知っとるやろ? 赤と緑、あるいは黄色と青が見分けにくいとか、な。赤緑色覚異常やと、赤地に描かれた緑色の数字は見えんことがある。それから、視野の問題もある、視野が欠ける病気があるんやけど、そうなると、欠けた視野に入ったものは見えんこともありうる。ああ、あと、俺は乱視なんで、裸眼やと月が四つにも五つにも見えるけど、﨑里にはひとつしか見えんやろ? そういうことも、ある」
そう言うと、先生はもの問いたげにこちらを見た。“袴の彼”のことをここで先生に明かしてしまうのはためらわれた。しばらく考えてから、聞いた。
「先生は結婚してるんですか?」
苦笑した。
「﨑里、そういうプライベートに関する質問には、立場上答えられません。でも、息子がひとり、おる。まだ三歳で、可愛いぞ」
そう言って、照れたように笑った。ソックスレーの丸底フラスコの中で抽出されたクロロフィルの緑が暗い色合いに変化し、濃くなっていった。
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