第63話 十一月十五日(火)ー1 透き通った緑色
先生と約束した夕方五時に、ホウレンソウの葉が数枚入ったポリ袋を持って、理科実験室に行った。先生はガラスのメスシリンダーに試薬瓶から無色透明な液体を注いでいるところだった。
「先生、それ、何ですか?」
先生は顔を上げずに答えた。
「これはメタノール。水やと、今回はあまりうまく抽出できんからな」
メスシリンダーではかり取ったメタノールを丸底フラスコに移し入れると、私の方を見た。
「お、ホウレンソウやな? いいわ、それなら、かなりうまくクロロフィルが抽出できる」
「クロロフィル?」
「うん、葉っぱの緑色は葉緑体の色っち、習ったろ? その中に入っとる色素がクロロフィル。緑色の色素や」
先生ははさみを取り出すと、ホウレンソウを細かく切るよう指示した。私が切ってしまうと、それを長さ15センチほどの円筒形のろ紙に入れ、ソックスレーの抽出管の中にそっと滑り込ませた。満足げな笑みを浮かべてこちらを見た。
「よっしゃ、じゃあ始めるぞ」
冷却水を流し、メタノールの入った丸底フラスコをヒーターで温めはじめた。しばらくすると、丸底フラスコのメタノールの中からふつふつと小さな泡がでてきて、冷却管からぽた、ぽた、としずくが抽出管のなかの円筒形のろ紙へと落ちはじめた。ろ紙が徐々に濡れ、浸り、みるみるうちに緑色に染まっていった。
「わあ、先生、緑色が染み出してきました!」
「そうなん、それがクロロフィルや」
「こんなに簡単に出てくるんですね?!」
「ホウレンソウは色が濃くて葉っぱが薄いからな、特に出やすいん」
「これ、水でも抽出できるんですか?」
「そうな、ホウレンソウ湯がくと、お湯が緑になろう? つまり、水でも抽出されるってことや。ただ、効率は良くない」
そう言っているあいだにも、抽出管の中にはぽたり、ぽたりとメタノールのしずくが落ち、メタノールの水位はどんどんと上がっていった。その色は、うっとりするくらい澄んだ緑色だった。
「きれい。面白い!」
先生は満足そうに笑っている。ぽたり、ぽたり。私は目を凝らしていた。そして、ついに! ぐるりと世界が回転するように、抽出管のなかの緑色の液体がすべて一気に排出され、丸底フラスコへと戻った。今回は緑色に着色されていたので、液体の躍動的な流れをはっきりと追うことができた。丸底フラスコの中には淡い緑色に染まった液体がたまっている。抽出管の中へは、あらたなメタノールのしずくが、ぽたり、ぽたりと落ちている。
「この緑色の溶液、クロロフィルしか入ってないんですか?」
先生は嬉しそうに笑った。
「いや、ホウレンソウの中に入っとる化合物のうち、メタノールで抽出される化合物がいろいろ入っとる。たまたまクロロフィルには濃い色がついているから、目立つだけや」
「そうなんですか。クロロフィルだけ取り出したり出来るんですか?」
先生はますます嬉しそうになり、私の顔をのぞきこんで言った。
「できる。あんな、分析化学って分野があるん。例えば、このホウレンソウの中にクロロフィルがどのくらい入っているか、あるいは、クロロフィルにも種類があるんやけど、どのクロロフィルが入っているのか、そういうことを調べるのが分析化学なん。その分析化学で重要なのは、分ける、ってことなんよ」
「分ける?」
「そう、雑多な混合物をどんどんより分けていって、最終的に必要なものだけを取り分ける。そうすると、ようやく、正確に含有量が測れたり、どんなものが入っているか、しっかりと把握できるん」
「そうなんですね。じゃあ、今この丸底フラスコの中に入っている緑色の溶液のままでは、クロロフィルの量は測れないってことですか?」
「うん。もちろん、おおざっぱには求められるよ、でも正確に測るのは難しい」
「どうやって、分けるんですか?」
よくぞ聞いてくれたと言わんがばかリに、満足げに笑った。
「クロマトグラフィーがよく使われる」
「クロマト、グラフィー?」
「うん。例えばさ、ここにガムテープがあるとするやろ?それを1メートルくらい引き出して、べろんと手に下げて、粘着側に向かって丸めたティッシュの玉を投げつけたら、どうなる?」
「くっつくんじゃないですか?」
「そうな。じゃあ、ビー玉を投げたら?」
「一瞬、くっつくかもしれないけど、でもすぐ落ちそうですね?」
「そう! ものによって、よくくっつくものとあまりくっつかないものがある。それは目に見えないような小さな化合物の世界でも同じなん。そのくっつきやすさの違いを利用して、化合物の混合物から必要なものだけを取り出すんが、クロマトグラフィーの原理のひとつ」
「うーん、何だか、あまりイメージがわかないです……」
「そうやろな。これもな、本当は目で見ると、すごくよくわかるんや。色のついた化合物でやると、本当にきれいなんやわ。いつか授業でやれたら、おもしろいんやけどな」
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