第61話 十一月七日(月) プール棟の“袴の彼”

 朝六時半に登校し、階段を上ると、プール棟二階の扉を開けた。この時間でもまだ暗い。本州と九州で日の出の時刻がこんなに違うなんて、こっちに来るまで知らなかった。しかもプール棟は白山の山影になっているため、朝日はほとんど入らず、今日のように曇っていると、廊下の奥はほぼ見えない。歩き始めると、リノリウムの床をける上履きがキュッキュッと音を立て、すぐに廊下の暗がりに吸い込まれていく。他に何の音もしない。週明けの廊下は、いつも以上に冷え冷えと感じられた。九州とはいえ、このあたりは関東沿岸部よりずっと寒いようだ。そろそろ制服の上に一枚はおるものが必要かもしれない。

 肩をすくめたそのとき、廊下の闇から、より濃密な気配がせり出してくるように思えた。白い影。一瞬、叫び声を上げそうになった。“袴の彼”だった。なぜここに?!


 これまで数か月間、毎日のように彼の行射を見守ってきた。でも彼と私のテリトリーは決して互いに交わることがない。私のたたずむプール棟、彼が弓を引く弓道場。彼がそこから出てくることは、絶対になかった。たった一度だけ、私がプール棟を出て、彼の領域に足を踏み込んだことはあったが、冷ややかな彼のまなざしに、二度とそうする気は起きなかった。


 そもそも、“袴の彼”と私の間には三十年以上もの時の隔たりが存在している。加えて、毎朝二十分だけ時間を共有する、あの奇跡のひとときですら、私たちは空間的に隔てられて、危ういバランスが保たれていたのだ。これまでは、そうだった。


 “袴の彼”はもう触れ合えるほど近くにやってきた。初めて恐怖を感じた。でも逃げ出せなかった.“袴の彼”のハシバミ色の瞳から目をそらせなかった。


 “袴の彼”がそっと左手を上げる。冷気を放つようなその手が私の喉元へと伸び、首を絞められる?! と頭が真っ白になった次の瞬間、そっと右頬を撫でられるのを感じた。一度、二度。そして彼はかすかに眉根を寄せた。立ちすくむ私をおいて、“袴の彼”は身をひるがえして廊下の闇に消えていった。


 我に返った私はあとを追いかけたが、廊下の突き当りには誰もおらず、何の痕跡も残っていなかった。窓に駆け寄って弓道場を見た。弓道場には誰ひとりいなかった。冷たい手の触れた感覚が右頬にしばらく残っていた。弓道場で触れた手と同じくらい冷たかったけれど、以前のような敵愾心は感じられなかった。

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