第55話 十月二十八日(金)ー2 川野と裕佳子
授業が終わり、クラスメートたちがばらばらと教室を出ていく。部活に向かおうとする川野に、私は思い切って話しかけた。
「川野、今日部活が終わったら、ちょっと話がしたいんだけど……」
川野は足を止め、振り返った。一瞬視線が合ったものの、すっと目をそらす。
「今日は、ちょっと……」
「ちょっと、何? ……少しだけでいいの。十分もかからないから。……お願い、このままだとお互い苦しいだけだよ。とにかく、私、教室で待ってる」
川野は一瞬目を上げたが、また落とし、そのまま出て行った。
誰もいなくなった教室で、私は英語と国語と化学の課題を済ませ、数学と生物の予習をした。一度、教室を出て、弓道場の様子をのぞいた。川野が行射している。その型は“袴の彼”の指導を受けるたびに、ぐっと美しさを増していた。川野はそれに気づいているのだろうか? 私は教室に戻り、スマホを取り出した。あの日から、“袴の彼”の写真や動画を撮り続けていた。これをお父さんに見せたら、どんな顔をするのだろう? ふと思ったが、そんなことをすれば、大事なあのひとときが台無しになる、そんな漠然とした予感があった。それは絶対に嫌だった。
教室の扉がゆるゆると開いた。川野がうつろな表情で立っている。
「お疲れさま。来てくれて、ありがとう」
川野は動かない。
「中に入って。……大丈夫だよ、もう絶対に体には触らないから」
川野がびくりと肩を震わせ、こちらを見た。そして、あきらめたような表情で、扉を閉めると、私の近くの席に腰を下ろした。
「体に触れられるの、嫌だったんだね――女の人には……だよね?」
川野は仏頂面のままそっぽを向いている。
「昨日は、ごめんなさい。ずっと手を握ってしまって。逃げ出したいくらい、気持ち悪かったんでしょ?」
口を開かない。
「私、あのときは“袴の彼”のことで頭がいっぱいだったから、川野のこと、ぜんぜん考えてあげられなかった。よく考えたら、もうずっと前に、川野に倒されたあの日に、気づいていてもよかったのにね。私に触ってしまった手、しきりにぬぐっていたもんね。昨日も、あの時以上に気持ち悪くて仕方なかったのに、手を振りほどかずに、我慢してくれていたんでしょ? 本当に、ごめんなさい」
うなだれた川野の肩が小さく震えていた。
「あのね、私は川野にすごく感謝してるんだ。転校してきて、最初に私を受け入れてくれたのは川野だし、ほかのみんなとの間の懸け橋になってくれたのも、川野だった。
私、お母さんが死んでから、怖くて外を歩けなくなったの。こっちに引っ越してきてからも、しばらく、外が、人目が怖かった。
クラスのみんなも、私のことを”あの事故”の被害者の娘だって思っているんだろうと思うと、自分からみんなの輪に入ることなんてできなかった。川野がいなければ、私はきっといまでも一人ぼっちで、みんなを疑って、苦しみ続けていたと思う。ううん、学校にも来れなくなっていたかもね。
そう考えると、川野には、いくら感謝してもしたりない。今、本当に学校が楽しいから。川野に心から感謝してるよ、ありがとう。そして、私もね、すこしでも川野の支えになれたら、って思ってる」
その言葉に川野は顔を上げた。ハシバミ色の目が警戒するようにこちらをうかがっている。
「私、川野の恋を応援する」
その瞬間、川野は体をこわばらせ、挑むようにこちらをにらんだ。そこに怯えの色が隠れているのがはっきりとわかった。
「応援って言っても、積極的なことは何もできないけれど。でもね、ひとりぼっちで、自分の意志では自由にならない何かにずっと耐え続けるのって、言いようもなく苦しいよね。
半年前の私がそうだった。お父さんになんて、話せるわけがない。話せる友達だっていなかった。高校に進学して間もない時だったし、そもそも、あのクラスじゃあ、そんなことを相談できる友達はできなかったかもしれない」
ゆっくりと、川野の目から虚勢の光が消えていった。
「中学校の時の友達は、みんな新しい生活に慣れたり楽しんだりするのに夢中だったし、それに、誰もが、ニュースやSNSで、あっという間に事故のことを知ってしまった。あること、ないこと含めて、詳細にね。私が連絡を取ったって、話なんて弾むはずがない、迷惑なだけだ、そう思ったら、もう、誰とも話ができなくなった。誰の言葉も信じられず、ひたすら、部屋で本を読んでいた。ただただ苦しかった。でも、そのときは、どうして苦しいのかすら、わかっていなかった。
もし、そのとき、誰かが自分の気持ちを理解して、見守ってくれていたら……。ううん、何もしてくれなくって、いい。ただ、自分がこんなに苦しんでいることを知っていて、自分を見守ってくれている、そんな人がそばにいるんだって思うだけで、少し元気になれるってこと、あるでしょ?」
川野の淡い色の目に涙がにじんだ。怯えが融けて涙になっていくかのようだった。堪えようと、何度も目をしばたたかせる。頬に涙が流れた。川野はうつむいた。私は目をそらさず川野を見ていた。ぽたり、とズボンに涙が落ちる。私はかばんからティッシュを取り出すと、川野のそばの机の上に置いた。ぽたり。ぽたり。川野は嗚咽を押し殺し、ただ涙を流していた。
「気持ちが落ち着いてからでいいの。私に川野の苦しみを打ち明けて? そして二人で恋ばなでも、しようよ」
しばらくののち、川野は肩を震わせると、私に軽く頭を下げてからティッシュを取り、涙を拭き、鼻をかんだ。一呼吸おいてから、震える声でつぶやいた。
「みんな、知っとるんかな」
「たぶん、誰も気づいていないと思う。女子の間でそんな話が出たことはないし、男子はほとんどが、川野は私に気があるって思ってるみたい」
川野の肩から力が抜けたのがわかった。
「そうか」
「……もう、今日は帰ろう? 川野のお父さん、今日は遅いの?」
「今日は、遅くないな。今から自転車で帰ったら、同じくらいかも」
「そっか、じゃあ一人じゃないね。自分の部屋でひとりでいるとしてもさ、同じ家の中に人がいるのといないのとって、ぜんぜん違うんだよね」
「……うん」
二人でプール棟を出て、自転車駐輪場に行った。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
「もう暗いけん、家まで送ってく」
「え、いいよ、うちの家まで、明るいところが多いし」
「いけん、送ってく」
川野は頑として譲ろうとせず、私は折れた。できるだけ速足で歩く。私たちは無言のまま私の家まで歩き、そこで、川野と別れた。
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