第53話 十月二十七日(木) “袴の彼”に話しかける

 川野と六時半に教室で落ち合う約束をしたのだけれど、待ちきれず、私は六時前に登校した。私が六時に登校したら、六時二十分には“袴の彼”は消えてしまうのではないだろうかとちょっと不安になりながら、弓道場に目を向けず、教室で川野を待っていた。川野は六時二十五分にやってきた。かなり眠そうな顔で、いつもの快活さはない。


「おはよう、じゃあ、すぐに行こか?」

「うん。スマホだけ持っていけば、いいかな?」

「そだな、それでいいんじゃね?」


 川野は机の上にかばんを置き、ふたりで教室を出て弓道場に向かった。川野が着替えているあいだ、私は弓道場の外で待っていた。怖くて弓道場に目が向けられない。川野が袴姿で出てきて、無言で手招きした。私は靴を脱いで射場に上がった。板の間の冷たさが靴下を通して伝わってくる。射場の中に目を凝らすと、いつもの場所に、“袴の彼”がいた。ほっとした。静かに弓を引こうとしている。どのタイミングで声を掛けたらいいのだろう? 私は迷って、川野の顔を見た。川野は顎で、行けよ、と示した。どうしよう、どうしよう、“袴の彼”に近づく勇気が出なかった。心臓は大きな音を立てて跳ねている。せっかく川野がチャンスを作ってくれたんだ、今、行かなくちゃ……。


 気づいた時には、左手で川野の右手首を握りしめ、川野を引っ張りながら“袴の彼”の後ろから、そっと近づいていた。


 “袴の彼”が乙矢を射終えたタイミングで、私は思い切って話しかけた。

「あの、あの、すみません、お邪魔してごめんなさい、小嗣さん……小嗣竹史さん、ですよね?」

 “袴の彼”の肩がひきつったように震えた。

「小嗣さん、私の声が聞こえますか? 聞こえていたら、うなずいてください」


 “袴の彼”は次の行射に移らず、うつむいている。しばらくしたのち、ゆっくりとうなずいた。そして顔を上げ、はっきりとこちらを見た。薄い、薄い、ハシバミ色の瞳。私は思わず川野のほうを振り返った。見えない? ねえ、今目の前にいて、こっちを見てるの。見えない? 話が通じそうだよ! 川野は目をすがめ、そして無言で首を横に振る。私はあきらめて、“袴の彼”に向き直った。


「お返事してくれて、ありがとうございます、あの、すごく嬉しいです。あの、あの、何からお聞きしたらいいのかな……私、プール棟の二階から、あなたが弓道の練習をする様子をずっと見学させてもらっていました。そして、あなたについて、お聞きしたいことがいくつか出てきたんです」


 “袴の彼”はこちらを見つめたまま黙っている。私はドギマギしながら、緊張を打ち消そうと大きく息を吸うと、質問を始めた。


「もう一度確認させてください。あなたは、小嗣竹史さんで間違いないですね?」

 小さくうなずく。

「毎日、なぜこの弓道場で練習しているのですか?」

 困ったようにわずかに首を傾げた。

「弓道部員、なんですよね?」

 一呼吸おいて、ゆっくりとうなずく。

「ほかに一緒に練習する人はいないんですか?」

 無言。

「たとえば、﨑里祐介くんとか、高原容子さんとか……」


 その瞬間、彼の顔がゆがんだ。あ、しまった、と思うまもなく、彼は素早く身をひるがえし、弓道場の奥に去ろうとした。


「待って!」


 とっさに、右手で彼の左手首をつかむ。“袴の彼”はびくりと体を震わせ、すぐさま私の手を振りほどき、冷たい目で私を一瞥すると、消えてしまった。


 氷のような冷たさだった。生きている人間の手じゃない、そう感じた。


「消えちゃった……」

 思わずつぶやいた。


「手、放してくれん?」


 泣きそうな声がすぐ後ろから聞こえた。振り返り、私は川野の右手首を握ったままだったことにようやく気づいた。

「ご、ごめん! ごめんね!」

 見ると、川野の右手首は赤くなっている。私はよっぽど強く握り締めていたらしい。ごめん、ごめんねと繰り返すが、川野は後ずさった。

「お、俺、もう着替えてくるけん」

川野は更衣室に駆け込んでいった。私はぼんやりとその場に立ち尽くしていた。


 その日、それからずっと、川野は押し黙っていた。無視しているわけではない。話しかければ答えてくれるのだけれど、目を合わそうとせず、見えない壁ができたような気がして、寂しかった。教室は普段より静かだった。

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