第52話 十月二十五日(火)ー2 矢野くんと川野

 五時間目の生物の時間、六人グループで植物の観察を行うことになった。黒木ちゃんと私の右腕に抱き着いていた美羽ちゃんと、さて、後三人、どうしようかとあたりを見回すと、すぐそこで矢野くんが顔を赤らめて、ぽつんとうつむいているのが見えた。とっさに私は声をかけた。

「矢野くん、こっちに入ったら?」

 矢野くんははじかれたように顔を上げてこちらを見ると、耳まで赤くなったが、それでもこちらに近づいてきて、か細い声でありがとうと言った。

「あっ、矢野っち、抜け駆けなしやわ! 美羽、黒木ちゃん、﨑里ちゃん、俺たちも!」

 川野が村居くんと一緒に寄ってきた。スキップでも始めそうな陽気さだ。美羽ちゃんが、またかあ、変わり映えせんなあとため息をついた。


「校庭で六種類の植物の葉を採取してスケッチします。採取する前に、植物全体の写真を撮れよ。それから採取場所もメモしておくこと。スケッチが終わったら、ネットで植物名と特徴を調べてみること。最後に、採取場所と植物の種類の関係をグループで考察すること。いいかあ、学外には出るなよ! グループで協力してやれよ」

 いつも薄汚れた白衣姿の生物の佐野先生は、教壇の上からだみ声で叫んだ。私たちはぞろぞろと校庭に出た。


 正門付近の花壇、体育館裏の中庭、プール棟の脇の草地で、木や草の葉っぱを撮影しながら摘み取って、白いプラスチックトレイに並べていく。黒木ちゃんがタブレットで五種類めの草を写真撮影して摘み取ろうとすると、矢野くんが小さな声で言った。


「そ、それ、三番目に中庭で取ったのと同じ」

「え、そうなん? ああ、確かに似とるな! 矢野くん、ありがとう」

「あ、あの、そっちのヤマボウシならまだ採っとらんけん……」

「ヤマボウシ? どれ?」

「そ、その赤い実がついてる木」

「これ?」

「うん」


 美羽ちゃんが採取しトレイに並べた。


 六種類集めたらすぐに教室に戻ってスケッチを始める。美羽ちゃんと村居くんは手際が良い。ものの十分で二人はスケッチを終えてしまったので、名前と特徴を調べてもらうことにした。美羽ちゃんに続き、黒木ちゃんもスケッチを終え、三人は検索もおざなりにおしゃべりを始めたが、スケッチの苦手な私は、まだようやく四つ目が終わったところだった。隣では矢野くんが画用紙の上に覆いかぶさるようにして、黙々とスケッチしている。その絵を横からそっとのぞきこんでみて、驚いた。植物図鑑の絵のように、緻密に描かれている。思いのほか長い華奢な指が、ゆっくりではあるけれど迷いなく、画用紙の上でペンを走らせている。

「矢野くん、うまいね!」

 思わずそう漏らすと、矢野くんはますます画用紙に覆いかぶさった。美羽ちゃんと村居くんがこちらに目を向ける。矢野くんの隣でおざなりにペンを動かしていた川野も興味津々な顔で、

「矢野っち、どれどれ、俺にも見してよ!」

 隠そうとしている矢野くんの左手をそっと持ち上げた。

「おおー!」

 四人がいっせいに歓声を上げた。矢野くんはこれ以上ないくらい、真っ赤になっている。


「矢野っち、すごい才能!」

「植物図鑑みたいやん」

「矢野くん、勉強だけやなくて絵もうまいなんて、実はオールマイティちゃう?」

「ほんとほんと、意外な一面やわ!」

「こないだの数学のテスト、ひとり百点やったろ? あれで俺、こいつは単なる計算機、って思っとったのに、こんな才能まで見せつけられたら、たまらんわ」


 矢野くんのスケッチを前に、矢野くんネタでわいわいと盛り上がり、私の目には矢野くんが少しおろおろし始めたように見えた。そのとき、川野が大声で割り込んだ。


「矢野っち、俺のも描いてほしいわ!」


「はあ? 川野、まだできてないん? へえ、あんたのも見せなや」

 美羽ちゃんが川野のスケッチをのぞき込んで、絶望的なため息をついた。

「こ、これは、ひどい。小学生のほうが、まだうまい」

「美羽、これは前衛的っていうんよ」

「いやいや、黒木ちゃん、生物のスケッチに前衛的はありえんでしょ?」

 美羽ちゃんも黒木ちゃんも村居くんも、川野には言いたい放題だ。

「お前ら、ひどいわ。矢野っち、俺にもその才能分けてよ。どう描いたらそうなるんよ?」


 少し顔の赤みが落ち着いた矢野くんが、小さな声で言った。


「か、川野くん、も、もう少し、全体の形をつかんでみ。川野くんのスケッチ、こ、細かい特徴は、むしろきちんと描けとる。よ、葉脈の走り方とか、葉縁の形とか。は、葉っぱのおおまかな形には、基本的な形状がいくつかあるんよ。糸状、楕円形、円形、心形、菱形とかさ。ま、まず、その形を意識してみて。は、葉っぱの全体の形が整ったら、川野くんのスケッチはすごく良くなると思う」


 みんなの目が丸くなった。これまで誰も矢野くんがそんなにしゃべるのを聞いたことがなかったからだ。声こそかぼそかったものの、そこにはゆるぎない存在感があった。みんなの視線に気づいた矢野くんは、再び耳まで赤くなった。


「矢野くん、すごい!」

「先生みたい!」

「俺、矢野っちに家庭教師してもらいてえ」


 また盛り上がり始めた場を川野が再び収める。


「はいはいはい、皆さん静粛に! 今のは俺へのアドバイスなんやけえ、俺のスケッチが素晴らしくなるのを静かに見守りなさい!」


 そして、こうか? こっちの葉っぱはこうやな、と形を修正し始めた。隣で矢野くんが、そう、とか、そこはもう少しよく見て、とつぶやく。美羽ちゃん、黒木ちゃん、村居くんはしばらく黙ってそのようすを見ていたが、すぐに昨晩のテレビドラマの話に夢中になった。だからせっせと手を動かす川野の耳に赤みが差しているのに気づいたのは、私だけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る