第50話 十月二十四日(月)ー3 小嗣竹史

 放課後、図書館でしばらく読書をし、そのあと教室に戻って英語と数学と化学の宿題を終わらせた。それでもまだ川野の部活が終わる時間まで間がある。私はスマホを取り出した。緑のアルバムのスナップショットを開く。私と同年代のお父さん、お母さん、それに小嗣さんが袴姿で写る写真。お父さんはおそらく今より体重が十キロ、いや二十キロぐらい少ないかもしれない。ぴんと引き締まった頬に若々しくて照れくさそうな表情を浮かべているのがほほえましい。つんとした勝気そうな微笑みを浮かべたお母さんは、今街を歩いていたって、十分に人目を引きそうな可愛らしさだ。スナップショットでも確認できる小嗣さんのハシバミ色の瞳、そして不可解な表情。下ろすことを許されない重荷を背負ったまま木陰で息をついているようだ。その憔悴の仮面の下にどんな感情が隠されているのか推し測れぬまま、私はしばらく見いっていた。


「ごめんー、お待たせ!」


 いきなり教室中に響いた川野の大声に、飛び上がりそうになった。本当に少し飛び上がったのかもしれない。私の驚愕ぶりに川野のほうも焦った。


「ちょ、ちょ、ちょっと、なに、なに、俺、そんなに驚かせた?」

「違うの、近づいてくるのに、全然気づかなかったから……びっくりしただけ」

「へえ、何見とったん?」

「これ、これなの、これを見てもらいたかったの」


 今見ていたスナップショットの写真を見せた。

「これ、この右にいるのって、川野のお父さん、かな?」

 川野はスマホを覗き込んで、楽しげに言った。

「おっ、そうかな、うーん、はっきりは言えんけど、何となく、面影があるような気がするわ。これってうちの弓道場の横よな? 父ちゃんたちが高校生の頃の写真かあ、ああ、さっすが若いなあ、ってか、俺らと同じくらいの年ってことやもんな。ってことはさ、この左と真ん中ってさ、﨑里ちゃんのご両親? へえっ、お母さん、超可愛いやん! これ、佐藤に見せたら、やばいで、あいつ、大興奮や」

「うちの両親のことはいいから。それでね、こっちも見てもらいたい」

 卒業アルバムから撮影した個人写真を見せる。

「この小嗣竹史さんって、川野のお父さんで間違いない?」

「うん。小嗣竹史って名前なら、うちの父ちゃんよ」

「川野もお父さんの若いころの顔なんて、よくわからないよね? じゃあ、まずはその顔をしっかり覚えておいて。そして、こっちの写真と慎重に比べてもらいたいの」

 今朝撮った写真を探して、開いてみせた。とたんに川野の顔が険しくなった。

「……﨑里ちゃん、もしかしてこれって、この写真って、つまり、﨑里ちゃんが毎日見とった“袴の彼”ってことなん? 俺の目には見えんかった?」

「うん、そうなの」

「すっげえ! 写真には、写ったんや!」


 川野は食い入るように少しぼやけた写真を見つめていた。無言で十秒ほども見ていただろうか、そのあと目を上げずにぽつりと言った。

「うん、このスナップショット、さっきの小嗣竹史の個人写真と耳と顎の形がそっくりやん? 俺が見る限り、同一人物、つまり、うちの父ちゃんで間違いないと思うわ、正しくは、高校生だったころの小嗣竹史くんやけど」


 背筋がぞくぞくした。ついに、“袴の彼”の正体がつかめた! やっぱり、川野のお父さんだったのだ!


「でも、信じられんわあ。なんで父ちゃんが? なんで毎日、高校生のころの姿で、弓道の練習をしに来るん?」

 そうだ。正体はわかったが、謎は解けていないのだ。


「なさけねえ息子が心配で、生霊になって出てきたとか?」

「だったら、川野が朝練に来ない曜日に現れる必要ないでしょ?」

「それもそうやな」

「私、川野のお父さんから教えてもらうまで、うちの両親が弓道をやっていたなんて、知らなかった。お父さん、小嗣さんのことを話したくないみたい。何かを隠そうとしているとしか思えないの」

「……」

「さっきの、小嗣竹史さんのスナップショットね、寂しそうだと思わない? アルバムの写真もそうだし、今朝撮った“袴の彼”の表情も、私にはそんなふうに見えてしかたない。川野のお父さんは生きているんだから、幽霊じゃないけれど、でも、あの高校生の年頃に、何か強い思い残しがあるから、いつもここに現れるんじゃないのかな? 私、“袴の彼”が笑うところを見てみたい。アルバムの、うちのお父さんとふざけあっているときのような、あんな笑顔にさせてあげたいって思ってるの」

「﨑里ちゃん、優しいな。俺は、﨑里ちゃんご執心の“袴の彼”がうちの父ちゃんかと思うと、超複雑な気持ちやわ。でも、どうすんの? 幽霊としゃべってみるか?」

「だから、幽霊じゃないんだって」

「おお、そうか。なんち言えばいいんかな、高校生の父ちゃん? 高校生の小嗣くん? 父ちゃんの生霊? ああ、もうややこしい、“袴の彼”でいいわ。あ、でもさあ、﨑里ちゃんが“袴の彼”を見ている時間帯って、父ちゃんうちの家にちゃんとおるで。どういうことやろ? 今度の木曜日、﨑里ちゃん、弓道場に来てみん? “袴の彼”に話しかけてみてよ。﨑里ちゃん、そいつが見えるんやったら、もしかしたら、しゃべれるんやない?」

「なるほど! それは考えもしなかった! やってみたい! ああ、でも、部外者が弓道場に入ってもいいの?」

「本当は良くないんだけど、だれも行射してないときに短時間なら、許されるかな」

「わかった! ありがとう、川野」

「いやあ、でも、まだ信じられんわ……本当に、その弓道場の“袴の彼”の写真って、合成じゃないよな?」


 私はスマホで今朝撮った動画を探し出し、黙って再生して見せた。川野の顔色が変わった。一分ほどの動画を無言で見つめ、私に断ってから、繰り返し、再生した。

「すげえ、﨑里ちゃん、これすげえよ。この動画、俺にもちょうだい。“袴の彼”が父ちゃんだろうと別人だろうと、この行射は鳥肌ものだわ。こんな流麗な射は見たことない」

「だよね、素人目にも、凄みが伝わってくるもん。悪いけど、川野とは、やっぱり格が違うよ」

「この動画を見りゃあ、俺だって、もう納得しましたよー!」

 川野はため息をついた。

「父ちゃんにさ、この写真とか動画を見せて、直接聞いてみよっか?」

「それは止めて!」

「なんで?」

「……うちのお父さんが高校時代のこと、それに小嗣さんについて何かを隠そうとしていることが、気にかかっているの。つまり、当時、川野のお父さんとうちのお父さんが関わる何かのトラブルがおきて、それが“袴の彼”が生まれた原因になったんじゃないかと思うの。うちのお父さんがそのことに触れられるのをひどく嫌がっていたということは、川野のお父さんもそうかもしれない。下手に聞き出そうとしたら、かえって逆効果になるかも。それに……うかつなことをして、"袴の彼"が消えてしまうようなことをしたくはない。だから、ちょっとまだ待って」

「そうなあ、まずは今後の戦略でも練りますか」

「うん、そうしよう」

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