第40話 十月二十日(木)ー5 何か知っている

 促されるまま向かい合って座りながら、私はようやく、ここに来た目的を思い出した。おそるおそる、切り出した。


「あの、ここに来たのは、その弓道部と関係があるんです」

「弓道部と?」

「弓道場で毎日早朝から練習している人がいるんです。一日も欠かさず。その人、“袴の彼”って呼んでいるんですけど、川野――章くんとそっくりな、薄い色の目をしています。弓道の腕前は、しろうと目で見る限り、“袴の彼”のほうがはるかに上です」


 台所から不服そうな咳払いが聞こえた。


「でも、信じたくないんですけど、その“袴の彼”は章くんには見えないそうなんです。“袴の彼”は、一度、章くんの腕を触って、型を直してあげていました。でも、章くんはそれに気づかなかった。私は――そう思いたくないんですが、でも、状況からすると、“袴の彼”は幽霊のような存在ということになります」


 川野のお父さんは無言のまま、こちらを見つめて話を聞いている。わずかに眉根が寄せられている。薄茶色の斑紋のある緑色の虹彩に吸い込まれそうな気持ちになり、思わず目を伏せた。でも、すぐにまた視線を上げた。


「すみません、こう口に出してみると、我ながら荒唐無稽な話だと思います。でも、本当に私には見えているんです。章くんだって、見えていないけれど、関わっています。“袴の彼”があの弓道場に幽霊のようなかたちで存在しているのは、間違いないです。何か、とても強い思いを残したまま、亡くなった方なんじゃないかって、想像しています。弓道部の方で、事故や病気で亡くなった方って、ご存じないですか? あ、そうだ、その人の袴には「小嗣」と刺繍されていました。章くんから、お父さんの旧姓が小嗣だとお聞きしました。ご親戚のかたに、たとえば弓道に強い執着を持ちつつ、若くして亡くなった方はいないでしょうか?」


 一気に語り終えた。川野のお父さんは口をつぐんだまま動かない。軽く視線を落としたお父さんは座卓の端を見据えたまま、口元をかすかに強張らせた。何か知っていると感じた。私は待った。柱時計の秒針の音を五回ほど数えたとき、川野のお父さんは口を開いた。その暗く沈んだ声には、もう、動揺は感じられなかった。


「私が知る限り、弓道部員で事故や病気で若くして亡くなった人はいませんね。それから、たしかに、私の旧姓は小嗣です。かなり珍しい姓なので、親戚以外で同じ名字の人に会ったことはありません。でも、親戚のなかで私以外に弓道をたしなんでいたものは、少なくとも私には心当たりがありません」


「そうですか……」


 玉のれんをくぐって川野が出てきた。


「父ちゃん、せっかく来てくれたんやけんさあ、何か手がかりになりそうな話はないん? 俺には見えんけどさあ、﨑里ちゃんは、その“袴の彼”を毎朝見とるんやで」


「これ以上は、ない」


 そして、また沈黙した。その沈黙に打ち崩せない強い決意のようなものを感じ、私は途方に暮れた。川野のお父さんは、もう私と目を合わそうとしなかった。私はすがるように川野を見た。


「そっかあ、じゃあ、まあ、しゃーねーわなあ。父ちゃん、何か思い出したらさ、俺に教えてな。﨑里ちゃんもさ、何かさらに“袴の彼”から手がかりを得たら、教えてよ、な」


 川野は沈黙を貫くお父さんを見ながら小さくため息をつき、そう助け舟を出してくれた。

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