第39話 十月二十日(木)ー4 同級生
「ただいま」
その陰鬱な声に、一気に現実に引き戻された。心臓をわしづかみにされた気分だった。自分で来たいと言ったにもかかわらず、私はとっさに裏口から逃げ出したくなった。川野が湯気のあがる卵焼きを皿の上で切り分けながら声を上げた。
「お帰りい。﨑里ちゃん、もう来とるけん」
居間に影が差す。ほらほら、という川野の目くばせに促され、私は居間に戻った。紺鼠の作業着姿の影が座卓の向こうで壁を向いて上着を脱ごうとしている。思いのほか小柄で、うちのお父さんに比べて随分と華奢な感じを受けた。まともに目を合わせる勇気が出ず、私はうつむいてその人の煙ったような色合いのズボンの裾を見つめたまま、一気にあいさつした。
「お邪魔しています。川野……章くんのクラスメイトで、﨑里裕佳子と言います。この夏、神奈川から越してきました。今日は、あの、お忙しいのに、無理言ってすみません」
返事がない。私はそっと顔を上げた。川野と同じハシバミ色の目――いや、川野よりも一段と薄い色かもしれない。疲れ果てた感じの、でも美しい目――がすがめられ、訝し気にこちらを凝視していた。沈黙に耐えきれず、私がさらに何か言おうかと思ったとき、川野のお父さんは口を開いた。
「﨑里さん、ですね? もしかして、お父さんは祐介さん、お母さんは容子さん、高原容子さんですか?」
一気に頭に血が上るのを感じた。事故のせいだ。うちの家族のことをみんな知っている。みんな知っていて、みんなさらに詮索しようとしてくる。
「母の事故のこと、ニュースで何度か流れましたよね。でも、父のフルネームや母の旧姓まで流れたんですか?!」
川野のお父さんは色の薄い目を軽く見開き、それからすがめた。
「ああ、ごめんなさい、驚かせたかな。お母さんの件は、とても残念なことでした。お悔み申し上げます。でも、事故とは無関係です。裕佳子さんのご両親と私は同級生だったんです」
その言葉に私は赤くなった。そうだ、ここはうちの両親の田舎なのだ。川野のお父さんがうちの両親と旧知の仲だったとしても、おかしくはない。
「あ、すみません! 失礼しました。あの、でも、ぜんぜん知りませんでした。うちの両親と、同級生だったんですか?」
「はい、高校の。弓道部の部活仲間でもありました」
弓道? 初耳だった。弓道をしていたなんて、そんな話は、お父さんからもお母さんからも、一度も聞いた覚えがない。
「お父さんは、二年生のとき部長でした。あのころうちの高校の弓道部は全国大会に何度か出場したほどレベルが高かったんですが、お父さんはその中でも一番の腕前でしたし、加えて人望も厚かったんです。お母さんは、高校に入ってから弓道を始めたそうですが、二年生になるころには女子部員の中でトップレベルの腕前になるほどの上達ぶりでした。だから、高校二年生になって、あのふたりが付き合い始めたとき、周りの誰もが納得し、お似合いだと思ったものです」
全く知らなかった自分の両親のエピソードが、初めて会った人の口から次々と流れ出てくるのを、私は不思議な気分で聞いていた。
「裕佳子さんは小柄なところはお母さん似ですね。それに、明るい髪の色も。容子さんは長い髪を二つに分けて三つ編みにしていました。そうそう、容子さんもしょっちゅう、その先端をもてあそんでいて、みんなから揶揄われていたものです。……でも、お顔は祐介くんの若いころに似ている。特に、頬から顎にかけての輪郭と目元は瓜二つと言ってもいい。鼻の形も、本当にそっくりだ。ぱっと見たときには、時間があの頃にさかのぼったのかと思ったくらいでした」
淡い、不思議な色の目が私を通じて過去を見つめ、そこにいる誰かに柔らかなまなざしを向けようとしたが、すぐに、きまり悪そうに立ち尽くしている私に気づいた。顔から笑みの兆しが消え、取り繕うように、ああ、すみません、どうぞお座りくださいと言いながら、座卓に腰を下ろした。
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