第37話 十月二十日(木)ー2 お母さんの記憶
玄関から続く廊下の右手が居間だった。木造二階建ての古びた小さな家は、おばあちゃんの家に似ていた。何もかもが自分の居場所にこじんまりとおさまり、もう何十年も前からそこに居続けているかのようにしっくりと馴染んでいる。私たちは向かい合って座卓に腰を下ろした。川野がお茶を入れ、隣のばあちゃんにもらったと説明しながら、小ぶりの柿をむいてくれる。
「慣れてるね。いつも家事をしてるの?」
川野の手際よさに感心して、思わずたずねた。男子とふざけ合っている、いつもの川野からは想像もつかない。
「まあねえ、父ちゃんか俺がやるしかないやん? 引っ越してきてすぐはばあちゃんもおったんやけど、小五のときに死んだんよ。それから料理は俺の担当になったん。ま、嫌いじゃないしな」
「川野のお父さんって、何のお仕事をしてるの?」
「うん? 工場のおっちゃんや。半導体メーカーに勤めとる。技術開発部だっけな?」
「ふうん、エンジニアなの?」
「まあ、そうなるんかな、﨑里ちゃんのとこは?」
「お医者さん。外科医」
「何と、エリートやな」
「病院大好きな変人だよ、普通の感覚から相当ずれてる」
「へえ、例えば?」
「例えば、私が小学校一年生のとき、悠太くんっていうお友達ができたの。初めて悠太くんの家に遊びに行こうとしたとき、お父さん、私になんて言ったと思う? 『避妊には気をつけなさい』。私はそのとき意味が分かんなかったけど、お母さんは、もう大激怒! 『どうして、いつまでも、そう、常識がないのよ!』だって。そのあと数日間、お父さんと口をきかなかった」
「そ、それは、かなりぶっ飛んどるなあ。でも、そういう天然ぼけって、なんか和むわ。周りの人がさ、笑って流せばいいんやから。悪意のない笑いでさ。うちの父ちゃんなんて、取りつく島がないけんなあ」
そう言って柿を頬張り、テレビのスイッチを入れると、
「悪い、俺、そろそろ夕飯の準備するけん、テレビでも見てゆっくりしとって」
「夕飯の準備? あの、良かったら手伝うよ。私もこっちに引っ越してきてから、おばあちゃんの手伝いで、少しは料理できるようになったし……」
「お客さんは寛いでいてください。うちの台所狭いし、それに俺、協同作業は無理なんです」
そう言うと、川野は玉のれんの奥の台所へと消えた。パタン、ザーザー、ガタガタ。そして、トントンと心地よい包丁の音が響き始めた。そのリズミカルな音を聞いていると、心が安らぐのを感じた。そして、ふとお母さんのことを思い出した。
お母さんはしょっちゅうキッチンにいた。カルチャーセンターでいろんな国の料理やお菓子作りを学んでいた。毎食の料理の色どりに気を配り、豪華なお弁当を作り、おやつだって、ちょっとした洋菓子屋さん顔負けのおしゃれなお菓子をよく手作りしてくれた。綺麗で、おいしかった記憶はある。でも、それをお母さんと一緒に食べた思い出はまるでない。そういえば、お母さんは甘いものはほとんど口にしなかったような気がする。自分が食べないお菓子や料理をお母さんはいつもどっさりと作ってはテーブルに並べていた。まるで隙間ができると、そこに何かが忍び込んでくると怯えているかのように。フラワーアレンジメントに凝っていた時期もあった。大きなテーブルを埋め尽くす料理や家じゅうにあふれかえった花かごにお父さんが眉をひそめたり文句を言ったりすればするほど、料理と花はますますはびこった。お母さんは私やお父さんが食べるのを見て満足していたのだろうか? 家の中を華やかに飾ることに喜びを感じていたのだろうか? 本当は料理も花も、好きじゃなかったのではないだろうか?
私は首を振った。玉のれんを両手でかき分け、川野に声をかける。
「ねえ、後ろで見ててもいい?」
「いいけどお」
何かを刻んでいた川野は振り返らずに返事をした。
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