第23話 九月二十九日(木)ー1 川野には見えない

 翌日、いつものように学校に行き、廊下の窓の前に立った。袴の彼はいつものように、ひとりで静かに弓を引いている。そのとき、弓道場の扉が開いて、袴姿の川野が現れた。私に向かって右手を挙げる。私も手を挙げて応えた。川野が大声で叫んだ。


「おらんやん? その袴のやつ。今日は珍しくお休みか?」

 何を言っているんだろう? 私は窓を開けると、叫び返した。

「いるってば。そこに。川野の右っかわ!……もしかして、見えないの?!」

「……」


 川野は神妙なおももちで私が指さしたあたりを見ている。


「……俺には、誰も見えん」

「私には見えてる! 川野と、その隣に袴の男子がいるのが」

「そいつ、何やってんの?」

「今、弓を構えようとしている。いつものように。私たちがしゃべってるのなんて、全く気にする感じもない」

「怖えなあ。俺、ここにいて大丈夫かな?」

「悪いことをしそうな雰囲気は、ぜんぜん感じない。ひとりで淡々と稽古をしているだけだよ。今だって、何も気にせずに、行射を続けている。たぶん大丈夫だと思う」

「そうか?」


 川野はおそるおそるといった感じで準備を始め、弓を引き始めた。川野が弓を引くところを見るのは初めてだ。表情からおどけた様子がふっと消え、一瞬にして、周囲から切り離されたかのように自分の世界に入った。意外な一面に、こちらも思わず背筋を正して見入る。きりきりと弓を引き絞ると、矢を放った。惜しい、的からわずかに逸れ、安土あづちに刺さった。二射めも的には当たらない。わずかに川野の顔に動揺が走った。肩をすくめると、もうそれはいつもの川野だった。


「ギャラリーがおると、緊張するんよ、俺」


 照れたように笑いながら、窓に向かってそう叫ぶ。もう、“袴の彼”は消えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る