第7話 八月二十六日(金) 袴男子と川野章
翌朝、今にも雨が落ちてきそうな空模様を気にしながら登校した私は、プール棟の外階段を登りきると、二階の廊下を教室に向かいながら、ふと、窓から階下の弓道場に目を向けた。薄暗い弓道場の中央やや向かって左寄りに、袴姿の男子がひとり立ち、弓に矢をつがえようとしているのが見えた。こんな早くから? 朝練? でもひとりで? 弓を引き絞る。迷いのない真剣なまなざしに、私は思わず目をそらした。あまりの迫力に、こっそりとのぞいているのが悪いような気がしたのだ。教室に入って読みさしの小説を開くと、もうその男の子のことは忘れてしまった。
「ああ、やっべえ、国語の教科書忘れた!」
川野の悲鳴。まただ。彼はしょっちゅう教科書を忘れる。私としては、なぜ忘れられるのか、他に何をカバンに入れてくるというのか、と腑に落ちない。
「ちょっと川野、あんた二学期になって何回目な、教科書忘れたん? 何でそんなに忘れられるん?」
あきれ果てたような、
「あー、おまえ、もしかして﨑里さんに見せてもらいたくて、わざと忘れちょらん?」
いや、その勘繰りは余計なお世話だ。
「えー? 俺が学生の本分をないがしろにすると思っとる? このまじめな俺に限って、そんなことありません。えへ、﨑里ちゃん、悪い、いっしょに見して」
へらへらっと笑いながら川野は手を合わせる。私は苦笑して教科書を机の左端に寄せた。
「川野ってさあ、厚かましいよなあ。調子いいっちゅうか、図々しすぎっちゅうか、イラってすることもあるけど、なぜか憎めん感じがするんよな。得やわ」
一緒にお弁当を食べるようになった黒木ちゃんが卵焼きを頬張りながら言う。黒木ちゃんのお弁当はいつもカラフルで、卵焼きとプチトマトとブロッコリーが毎日必ず入っている。今日はさらにピンク色のハムの蝶々がブロッコリーに止まっている。
「あいつが言うと、何でもさらっと聞き流せるんよな。村居とか佐藤やったら、ねちっこい感じがして、むかつくんやけどさ」
ハムとキュウリとチーズのサンドウィッチを食べながら美羽ちゃんも言う。
「何やろ、美形やないけど、さわやかっちゅうんが、親しみやすさの本質かな。あと腐れなく遊べそうなとこがさあ、男女の友情が成立しそうっちゅうか、二股かけても許してくれそうっちゅうか」
「美羽、それは言い過ぎ」
「それは冗談やけどさ、でも、恋ばなとかしても、いっしょに盛り上がれそうやん?」
「それは言えちょんな」
黒木ちゃんはフォークにブロッコリーを突き刺すと
「でもあいつ、裕佳子ちゃんのこと、かなり意識しちょると思わん?」
サンドウィッチの袋をたたみながら美羽ちゃんもうなずく。
「あー、しょっちゅうちょっかい出しちょるよな。最初は、転校生やけん、気いつかってあげちょるんやなっち思っとったけど、さすがにちょっとアヤシイ」
食べるのが遅い私は、たいていいつも聞き役なのだが、今回ばかりはまずいと思って、おにぎりを急いで飲み込んだ。
「そんなことないよ。たぶん、本当に、親切なだけなんだと思うけど。だって、私に話しかけるというよりは、いつもみんなと話すきっかけを作ってくれてるもん」
「ふうん?」
と、黒木ちゃんが首をかしげる。
「まあまあ、まあまあ」
と美羽ちゃんがしたり顔で右手を振る。
何がまあまあなのかわからなかったが、美羽ちゃんは私の肩をぽんぽんと叩いてにっと笑うと、隣のクラスの高橋くんの芸術的に立てられた前髪がいかに時間をかけてセットされているかについて分析を始めた。
夜にお父さんから電話がかかってきた。調子はどうだ? ばあちゃんは元気か? ちゃんとご飯食べてるか?……本当はもっといろいろ聞きたいのに、なんと切り出したらよいのか悩んだあげく、無難なことしか口に出せないのがすぐわかる。調子は悪くない。おばあちゃんは元気で毎日畑に行ってるし、私はちょっと太ったかも。高校には慣れたよ。最初はどうしようかと思ったけれど、今ではクラスのみんなと普通にしゃべれるようになった。お弁当を一緒に食べる友達ももうできたよ……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます