邂逅

第6話 八月二十五日(木) 新しい学校

 晩夏というにはあまりに猛々しい熱波を放つ太陽も、早朝は金色の冷光を震わせ、大気を穏やかに潤ませている。いたるところに降りた朝露で空気はしっとりと湿っている。私は九州の地方高校に転入することになり、八月十九日からお父さんの三十四期下の後輩となった。お父さんは進学校だなんて言っていたけれど、前の高校に比べると、その雰囲気は格段にのんびりとしている。


 私はこの町の人たちを知らない。でも、この町の人たちの中には私を知っている人が何人かいた。パンの表面に一点のカビが現れたときには、内部にはすでにびっしりと菌糸が張り巡らされているように、私のことはすでに町中の噂になっているのかもしれない。さほど賑やかでもない商店街を歩くたびに、すれ違う人たちがそっと振り返りながら小さな声で囁き合っているのが聞こえるような気がした。「ほら、あの子よ、﨑里の家ん子や」「お母さん、高校生の車にはねられて死んだっち?」「しいっ、聞こえるで」「可哀想にね」「可哀想やな」「可哀想」。


 だから私は町が目覚める前に学校に行くようになった。さいわい、畑仕事をしているおばあちゃんは早起きだ。おばあちゃんに合わせて朝の四時に起床し、五時に家を出ることにした。通学に電車やバスは使わない。三十分も歩けば学校につくのだ。上履きに履き替え、朝日が差し込む渡り廊下を歩き、教室への階段を上る。室内プールの上階に並んだ三つの教室、その一番奥が私の転入した一年五組の教室になる。


 教室は集団が発する濃密なにおいがする。


 転入した初日、先生の後ろについて教室に入り、喧噪と好奇の目とともにこのにおいが押し寄せてきたときには、思わず、逃げ出したくなった。都会の子供たちより、あけすけで強烈な視線で私を無遠慮に撫でまわすクラスメイトたち。決して近寄らず、でも遠巻きにずっとこちらを気にし続けるクラスメイトたち。私は水族館の珍魚になったような気がした。悪意を感じさせるものではなかったけれど、あちらとこちらの境界には絶対に打ち崩せない分厚い壁が存在していた。まる二日間、無言に耐えた。三日目の朝に隣の席の男子が話しかけてくれた。まるでそれが確認終了の合図だったかのように、ほとんど全員が口を開いてくれるようになり、四日目からはほぼみんなが昔ながらの友達のように話をしてくれるようになった。最初の二日間の品定めが強烈で絶対的だったのと同じく、受け入れもまた、唐突で徹底されていた。

 この教室のにおいは、その無言の二日間を思い出させる。でもまだ誰もいない、まどろんでいるような教室で、このにおいに包まれ、このにおいに私のにおいもまじりあっていくのを感じるのは、嫌いじゃない。


 カバンから小説を取り出す。あと二時間は、ゆっくりと読書ができる。三つ編みの端を指でもてあそびながら、小説の世界に没頭していく。


「﨑里ちゃん、部活、入らんの? 向こうでは、何かやっとらんかったん?」

 四時間目が終わったあと、間延びした声でそう尋ねてきたのは、隣の席の川野章だ。彼がクラスの斥候役だ。転入してきた当日と翌日は、彼も、もの言いたげな様子で隣の席からちらちらとこちらを盗み見するばかりだったので、私は身の置き所がなかったのだけれど、三日目の朝に言葉を交わしてからは、幼稚園のときからの友達のように、気さくに話しかけてくるようになった。うまくきっかけをつかめず、ためらっていた女子たちとの間を取り持ってくれたのも、川野だ。

「前の学校では、何もやってなかった。今のところ、部活は考えてない」

「そうなん? せっかくやけんさあ、何かやったらいいやん。あ、おれ、弓道部。弓道部いいで、運動部の中じゃ、そんなにきついほうやないしさ。何ちゅうか、こう、弓を引くときん、あの緊張感、ふっと、自分がなくなるみたいな感じ、気持ちいいんよな」


 川野は弓を構えるしぐさをしてみせ、まあ考えてみてな、と笑った。その屈託ない笑顔に思わず私もほおを緩めた。


 正直言って、運動にはあまり興味がなかった。走るのも、投げるのも、跳ぶのも、泳ぐのも、体育の授業で必要だからやっているだけで、進んでやりたいとは思わない。でも、弓道、弓、それは未知の世界だった。そう言えば、私たちの教室のあるプール棟は弓道場に隣接していた。

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