第3話 六月十八日(金) 転校の打診

 六月も半ばを過ぎたころ、お父さんが言った。

「なあ、裕佳、ばあちゃんのところに行かないか?」

「おばあちゃん? おばあちゃんって、九州の?」

 私は眉をひそめた。

「別にそんなとこに行かなくったって、ここでいいじゃん」

 お父さんは目を伏せて口ごもっている。

「今の学校は、授業だって試験だって、しばらくはリモート可なんだから、学校に行けなくったって平気だし。九州に行く理由なんてないでしょ?」


 お父さんはしばらく黙っていたが、ぽつりぽつりと言った。


「裕佳をひとりで家に残しているのが、お父さんは心配でたまらないんだ。仕事をしていても不安で、集中できない。気づくと家のことや裕佳のことを考えている。こんなことではお父さんの方が参っちゃいそうだし、何より、患者さんに失礼だ。裕佳のことを考えれば、お父さんがずっと家に残って一緒にいてやれれば良かったんだが、どこの病院だって、それでなくとも人手不足なんだ。それは、裕佳もわかるだろう?」

 お父さんはちらりとこちらを見た。

「ごめんな、お父さんは、もう、仕事に集中しなければいけない。裕佳はしっかりしてるとお父さんは思ってるよ、でも、まだ十五歳だ。もしも今後、お父さんの留守中に、裕佳の身に何かあっても、裕佳がお父さんを必要だと思うような事態になっても、お父さんはすぐに対応できないだろう。お前が嫌な目や危険な目にあうかもしれないとか、何か事件に巻き込まれるかもしれないと怯えながらでは、責任もって仕事ができないんだ」


 日に日に本格的な引きこもり生活に近づく娘を危惧きぐしたり鼓舞こぶするよりも、このままでは自分が日常を取り戻す障害になると言わんがばかリのお父さんに、いきどおる前にあきれ、それから無性におかしくなった。お父さんのふがいなさ、傲慢ごうまんさ、それにそれらを隠そうともしない馬鹿正直さが、なぜか私の心を動かした。


 ふと、お通夜の晩、運転していた男の子の両親がこわばった顔でやってきて、ひたすら頭を下げていたのを思い出した。本人は来なかった。それが当たり前のことなのか、非常識なことなのか、私にはよくわからない。お父さんはひとことも口を開かなかった。目も合わせようとしなかった。怒鳴ったり殴ったりして、誰かが慌てて止めようとして、結局その人たちをも巻き込んだ大騒動になったりするのだろうかと少し不安になっていた私は、ちょっと安堵しつつも、わずかな胸のつかえを感じた。


「向こうにも良い進学校はある。今すぐは無理だが、七月末の転入試験に合格すれば、二学期から転入できるそうだ。受けてみないか? ばあちゃんは、まだ頭も体もしっかりしている。ひとりで畑をやってるくらいだからな。裕佳を託しても、お父さんは安心して仕事ができる。もちろん、ばあちゃんと裕佳の生活費は何の心配もいらない。裕佳が高校を卒業するまで、二人で不自由ない生活はできる……」


 あの男の子はこの先どうなるのだろうか? 高校一年生になったばかりだから、まだ十五歳だろう。罪に問われることもなく、数か月もしたら、人を殺したことも忘れて、これまでと変わらない生活を送るのだろうか? ほとぼりの冷めたころに眉根を寄せてお悔みに現れ、直角に腰を折って、とんでもないことをしてしまいました、大変申し訳ありませんでした、と判で押したような文句を唱えたりするのだろうか?


「……裕佳子?」

「あ……うん。わかった。それなら、転入試験を受けてもいいよ」

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