土耳古石の指輪

紫鳥コウ

土耳古石の指輪

 ぼくは外套がいとうを着て肩をそびやかし、或る雑誌の編輯者へんしゅうしゃとの待ち合わせのため、霜曇りの朝から濡れた道路を秦皮樹とねりこのステッキで鳴らしながら、約束をしたカフェへ歩いていた。建仁寺垣がどこまでも続いたかと思えば、葱畑が左手に見えて、笹垣で囲った家があり、そこの瓦屋根の門の前で、顔なじみの女学校の生徒が憂い顔をして誰かを待っていた。

 中折れ帽をちょいと取って挨拶をすると、西洋髪の彼女は片靨かたえくぼに寂しい色を見せて微笑んだ。夕暮れに会う時などは、眉間に険しい気性を覗かせている彼女なだけに、ぼくは少し空恐ろしい気持ちになった。


 金時計を懐から出してみると、もうすぐ午になろうとしていた。編輯者の彼はなかなか現れなかった。が、彼の遅刻癖は親しい者の間では周知のことであったので、一、二時間の遅れは不愉快を感じさせるものの、もうあきらめて待つしかなかった。

 曲木の椅子から立ちあがり、ひとつ伸びをすると、文科の学生の三人のうちの一人がこちらに目線を投げかけてきた。そしてまた、文壇の閉塞を憂いる手厳しい批評を敷島しきしまの煙のなかに漂わせはじめた。

 先ほどから目を伏せて待ち人をしているらしい、耳隠しに結った女性は、いよいよ彼らのやかましい文芸時評に耐えきれなくなったらしい。わざとらしく両の手で耳を覆って見せた。


 新聞も本も飽いてしまって、もういなくなった文科学生のせいで寂しくなった耳は、眠気を誘うのに充分な静けさを拾いはじめた。

 それから、しばらく腕を組んでうとうととしているうちに、だれかが階段を上ってくる音が聞こえてきた。

 が、それは彼ではなかった。のみならず、瓜実顔うりざねがおの束髪をした彼女は、ぼくの見知ったひとだった。思わず、会釈をしそうになったが、彼女はぼくのことを覚えていないに違いない。

 金時計を見ると、もうすっかり午を過ぎていた。斜向かいの卓子テーブルに座った彼女は咳払いをすると、青白い手を交互にさすりはじめた。

 ぼくは「おや」と思った。というのは、ぼくの眼が、彼女の右手にある土耳古石とるこいしの指輪を認めたからである。ぼくはこの指輪を知っていた。正確には、あの日――春雷の日に掘り割りに投げ捨てられた土耳古石の指輪と、寂しげな目を沈みゆくその指輪の方へと向けている彼女のことを覚えていた。

 そしてこの彼女は、不幸にも、ぼくの或る短篇小説のなかの一幕に登場させられていた。

 ぼくは、そのために、銀貨を何枚か彼女に渡したい気持ちになった。が、その気持ちに対しては、彼女を祝福する意味の方が多いように思われた。

 編輯者の彼は、まだ省線電車のなかで居眠りをしているのであろう。晴れわたる深い秋の往来を見下ろしても、どこにも彼の姿は見あたらない。

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