第2辛 その色は記憶の中で眠る

 遅刻する夢をときどき見る。実際に遅刻した回数よりも遅刻した夢を見た回数のほうが遥かに多かった。


「本当にこっちで道、合ってるの?」 


 ピリカを先導して自信満々に歩く犬に話しかけてみるが返事はなかった。


 目を覚まして起き上がると、ピリカはモヤモヤとした白い霧に包まれていた。焦げ臭さや息苦しさはまったく感じなかった。


 ピリカのそばで大きな犬が背筋と口から舌を伸ばして座っていた。記憶にない凛々しい顔つきの犬。灰色とベージュの毛並みをした耳をピンと立てている。身体つきはしっかりとしていた。


 その犬はピリカが起き上がるのを見ると、腰を上げてゆっくりと歩み出した。霧の中を真っ直ぐに進んでいき、霧に隠れて姿が見えなくなりそうなところで振り返る。ピリカを待っているようだった。


 頭上には霞んでいるけれど太陽が浮かんでいるようなぼんやりとした光が上がっていた。足元には青々とした芝生が敷かれている。


「裸足じゃんわたし!」


 粉々にしたシシトウを舐めてからの記憶がまったくない。家にいたはずなのに、見覚えのない世界に、しかも素足で立っている。


 ――まだ夢を見ているのかな。


 夢を見ているときに、その世界が夢であることに気づいたことはなかった。どれほど馬鹿げた夢であっても、イヤな夢であっても、気づくのはいつも目が覚めてからだった。


 ピリカが犬のほうへ歩み出すと、その犬も同じように進み始めた。ふさふさとした灰色の尻尾について行く。


 霧が薄れていくと、世界の色がどんどんと濃くなっていった。


 霧に包まれた白い世界を抜けた先には、今度は緑が広がっていた。爽やかな風に草木がそよいでいて、小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 

 ピリカを案内してくれたその灰色の犬は、そのまま道なりに走っていき、木陰で腰を下ろして、ゆるりと手を振っている人物の近くで足を止めた。


 ピリカの後ろには、抜けてきたばかりの真っ白の霧が途切れることなく横に延々と連なっていて、分厚い雲で作られた壁のようだった。



「君がアカオニ……じゃあなさそうだね」


 地面に広げられたレジャーシート。四隅には風で飛ばないように角ばった石や荷物が置かれている。

 ピリカは木陰で休んでいた年上っぽい男の人――カイリに促されて、シートの端にちょこんと座っていた。


「アカオニって、赤い鬼のこと?」

「まだ見たことないから分かんないけど、たぶん赤くはないよ」

「アカオニなのに?」

「そのうち分かると思うけど、この世界には欠けた色がある」


 編み込まれたランチボックスから、カイリはサランラップに包まれたサンドイッチを取り出した。

 

「ひとつ、食べる?」


 一切れのサンドイッチを差し出されたが、ピリカは受け取ろうか少し迷ってからやんわりと断った。

 気を悪くした様子はなく、そのままカイリはサランラップの包みをぺりぺりとめくった。


「パンにトマトを挟んでるんだけど、何色に見える?」


 トマトなんだから赤と即答しかけたが、サンドイッチの中でレタスの上に乗っているトマトは濃いオレンジ色をしていた。


「珍しい種類のトマトとか?」

「じゃあ……これはどうかな」


 カイリがカバンから取り出したタッパー。落ち着いた色合いの容器を開くと、切り分けられたリンゴが入っていた。その皮の色もオレンジ色をしている。


「赤くない……」

「そう。この世界にはたぶんその色が存在しないんだ。赤という色がどんな色なのかそもそも知らない人もいるくらいだし」


 カイリはそばで横たわっていた灰色の犬に、そのリンゴを食べさせていた。


「こいつの名前はライ。僕の用心棒」

「たしかに強そうな犬」

「道具が使えない分、人間よりも肉体的には遥かに強いだろうね。足も速いし」


 サンドイッチを食べ終わり、カイリはひと息ついてから立ち上がった。


「せっかくだし近くの町まで案内するよ」

「町?」

「それほど大きくはないけど、いつもは静かで落ち着いた町だよ」


 サンドイッチの入っていた容器や水筒をカバンの中に手際よく片付けていたけれど、広げたレジャーシートだけはそのままにしていた。


「これは片付けなくていいの?」

「この辺には何もないからあんまり人が来ないんだ。いつもそのままにしてある。また来るし。町に着いたら何か欲しい物ある?」

「……サンダルかな」


 裸足で石の上を歩くと冷やりとしていて気持ちよくて、芝生の上は柔らかい感触がくすぐったい。裸足でいることは、そこまでイヤではないけれど、町へ行くとなると恥ずかしい気持ちがあった。


「そういえば裸足だったね。何か踏んじゃうとケガをするかもしれないし、靴はあったほうがいいね」

「この世界でもケガするの?」

「もちろんするよ? あれ……なんか変なこと言った?」

「ううん。なんとなく、しないのかと思ってた」

「するする。余裕でケガするよ。ほら見て、この傷――ライに噛まれた傷跡」


 傷口は塞がっていても、はっきりと跡が腕に残っている。噛んだ原因のライは飼い主の話に関心がないのか、こちらをちらりとも見ることはなかった。


「ケガしたら痛いし、死ぬことだってある」

「あのね、ひとつ聞いてもいい?」

「答えられることであれば……何かな?」

「そんな難しい話じゃないんだけど、この世界の血って、何色なのかなって」

「それは難しい問題だね。実際に見てみないと信じてもらえないだろうし……。何色だと思う?」

「やっぱり、赤?」

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