Episode⑤

「それでは……始めます」

 ステンレス製の台の上に横たわる女性。つい数時間前まで生きていた彼女、今は裸で冷たい台の上に寝かされていた。

「岬さん、見たくないなら見なくていい。外に出ていていいから、そんな顔をしないであげて。この女性だって、見られてることにきっと恥ずかしい思いをしてる。目を背けたくなるなら、この場から離れてあげて」

 秀一はいつもとは異なる声色で言った。優しい口調だが、いつもより低い声。何よりも彼が纏う空気が怖かった。

「すみません……」

「……畑中美帆はたなかみほさん、二十四歳女性。北河区市民病院にて死亡、現在流行しているとみられる病原体による関連死の疑いで、原因究明のため当センターに搬送。まずは所見からいきます。身長百六十一センチ、体重四十五キログラムのやせ型、身体表面に……」

 秀一は素早く的確に所見を述べていく。

 体を動かす際には、生きている人間と同じように優しく扱い、女性に声を掛けていた。

 「それでは、切開を始めます」

 手に解剖用のメスを持つと、鎖骨下から切開した。流れるような動作に、思わず見とれてしまう。

 内臓が取り出され、検査へと回す。血液を抜いては検査へ。この作業を何度か繰り返し、彼の手が止まった。

「浦浜先生……これ……」

「出血傾向、この症状……上野先生、最悪なことが起きてるかもしれませんよ……」

 秀一がそう言うと、病理解剖医の上野が目を見開いた。

「僕たちは見たくないものを見る羽目になるかも」

 彼はそう呟くと、再び手を動かす。

 何が起きているのか、何がどうなっているのか、これから何が起こるのか、岬には想像も出来なかった。



 解剖が終わり、研究室内で休憩をしていた一同。

「急ぎで検査してるのでもう少し待ってくださいって、検査室の野本さんから伝言です」

「わかった。ありがとう。……岬さん、さっきはきつい言い方をしてごめんね。僕さ、解剖ってなると人が変わるんだ。言い訳になるけど……。ほんと、ごめんね」

 秀一はそう謝った。

「そんな!私、何も気にしてません!これから起こることに目を背けてたのは事実ですし、裸で寝かされてかわいそうって思ってた自分がいたのも事実だし……。でも、先生の解剖を見てたら、不思議とそんな感覚は無くなってて。ちゃんと解明してあげるのも、この人を弔うことになるのかなって……私なんかがおこがましいですけど、そう思ったんです。だから、目を背けるなって注意してくれて、よかったです」

 岬は思いを伝える。

 彼はどこか嬉しそうに微笑んだ。


 三人は解剖所見をまとめ、検査結果が出るのを待っていた。

「じゃあ、もしかしたらそのウイルスの可能性があるかもしれないってことですか!?」

「あくまで、僕の考えだよ。ただ、上野先生も同じことを思ってるみたいだ」

 病理解剖医、上野は頷いた。

「浦浜先生の予想は当たってるかもしれません。私は法医学には詳しくないですが、あの所見からすると、間違いないかもと思いました。もし、あのウイルスだとすれば……治療法はなく、対症療法しか方法はありません。ただ、ワクチン接種による予防効果はあるので、それくらいしか……」

「だったら、それを発表してワクチン接種をすれば……」

「そう簡単には出来ないんだ。ワクチンは弱毒化した生ワクチン、鶏卵アレルギーがある人には接種できないし、重大な副反応による死亡例もある。なによりも、国民全員分のワクチンが手に入るかどうかも……」

 成す術がないと言わんばかりの悲しげな表情を見せる秀一に、岬もまた不安を覚えた。

「とにかく今は検査結果を待とう……」



【感染者からできるだけ離れて、接触は控えてほしい。それと、これはまだ発表されてないけど、ウイルス感染症かもしれない。混乱を防ぐ為に、まだ誰にも話さないで。蚊に気をつけて。刺されないようにして】

「蚊に気を付けろって言われても……無茶だろ……」

 季節は六月、気温は二十五℃に達しており、蚊が活発化する条件がそろっている。詳細は話せないがこれだけを伝えてくるってことは、蚊が原因でこうなってるってことなんだろう……。ただ、相手は自然を飛び回る虫だ。防ぎようがない。虫よけスプレーを持ってるわけでもないし、長そでを着ているわけでもない。

「たまに無茶を言ってくるんだよな、あいつは」

 翔は困ったように笑った。

「できるだけ防いでみるよ。でも期待はしないでくれ、相手は虫だからな」



 静かな研究室内に、内線が鳴り響いた。それと同時に、電子音が鳴った。病原体登録した結果も出たようだ。

「はい……」

『結果が出ました……』

 電話の相手は検査室の野本だ。秀一は受話器を手に、彼からの報告を受けている。

「……うん、わかった。二人にもそう伝えるよ。ありがとう」

 数分話した後、秀一は電話を切った。

 モニター前に立ち、検索結果も確認する。

 彼の表情、態度が全てを物語っていた。きっとだったに違いない。岬は途端に恐怖を覚えた。

 学生時代に習った。怖さは知っている。防ぐ方法が難しいことも。まさかそれが、今の日本で……?いったいどこから……?どこにもぶつけることのできない不安、恐怖が脳内を駆け巡る。

「先生……その顔は、例のウイルスだったってことなんですよね……?」

 彼女がそう言うと、秀一は「ああ。でも、もっと最悪かもしれない」と声を震わせた。こんな秀一は見たことがない。彼女は今にも叫びたい気持ちを抑えていた。

「上野先生も、しっかり聞いていてください。岬さんも。……検査室の野本から、畑中美帆さんの各種検査結果、PCR結果、全てが出たと報告がありました。資料としてこっちにメールで送ってくるそうですが……病原体は“黄熱ウイルス”でした。ただ、これは自然なウイルス株じゃなくて、意図的に手を加えられている可能性が高いと報告も。その辺りはまた詳細に調べて報告が来るそうです……僕の嫌な予感は当たったな……」

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