第一章 発生
Episode①
六月、警視庁に配属されて二か月が経った。
翔は相変わらずの慌ただしい毎日を過ごしている。
「例の資料誰が持ってる!?」
「おい!電話鳴ってるぞ!」
捜査一課にある三つのシマ。班ごとに担当している事件が異なるため、それぞれのシマからは色々な声が聞こえてくる。
その中の一つ、庵野班はちょうど事件が片付き、つかの間の休息を得ていた。
「二つは忙しそうだね~」
「俺らもつい昨日まではヤバかったですよ」
庵野の独り言に反応する桜木。
「僕、初めてです。ここに泊まったの。警察署の夜ってなんか怖かったです……」
机に突っ伏す鳴海を、香田が見ている。
「情けないな~男なのに」
「男とか関係ないですよ!そう言う香田さんだって、怖がってたじゃないですか!」
「それは……暗闇に生嶋さんが立ってるから……」
「ほら!やっぱり怖かったんじゃないですか!」
二人はまるで子供のように言い合っている。
「喧嘩するなって。まるで姉と弟だな」
「せめて兄と妹にしてください!」
鳴海は桜木に近寄った。そんな平和な朝を、庵野は父のような眼差しで見ている。
「庵野さん、ちょっといいですか?」
翔は彼に声を掛けた。
「明日、休みをいただいているので……その……」
「あいつによろしく伝えてくれな。こっちのことは気にしなくていいから」
父の墓参りへと行くために、翔は明日一日、休みを取った。
「はい、ありがとうございます」
*
翌朝、何もない普段と変わりのない朝がやってくる。
近所で一人暮らしをしている母を迎えに、彼は少し早めに家を出た。
母が住むマンションへ着くと、すでに姿がある。
「母さん!遅くなって申し訳ない。待たせたよね?」
「ぜーんぜん!ちょっと早めに降りたら、お隣さんとばったり会ってね。世間話してたのよ」
「そっか。お隣さんも元気そう?」
「元気そうよ~?この間なんて、ご主人と山登りしたらしいからね。でも、離れて暮らす息子さんが体調悪いとかで、家で療養してるって。なんか急に高熱が出たらしくて……」
「それは心配だろうね。母さんも気を付けてよ。一人だし、なんかあったらすぐ連絡してきて。いいね」
そう簡潔に物事を伝える息子。ますます博信さんに似てきた……と、薫はほんの一瞬、息子に夫の姿を重ねた。
「どうかした?」
「ううん。なんでもないよ……。それより、翔はどう?体調とか怪我は?」
「俺は大丈夫。仕事もプライベートも充実してるよ」
二人は会話しながら、駅へと歩いて行った。
改札を通り、環状線のホームへと向かう。
「ちょうど出発したみたいだね。次の電車に乗ろう」
「ええ」
隣に立つ母は、少し化粧をしていた。父がプレゼントしたブローチを胸につけている。言葉を交わさなくても、母が父に会えることを楽しみにしていることは彼に伝わっていた。
「きゃぁぁぁぁぁっ!」
騒がしいホームに響き渡る女性の叫び声。
咄嗟に体が向かおうとしていた。
「母さん、ここにいて。動かないで!」
「え、ええ、分かった」
「すみません!通してください!警察です!」
警察手帳を取り出しながら、翔は人混みをかき分け、叫び声の元へと駆け寄る。
そんな息子の背中を、母は誇らしげに見ていた。
「やっぱり、博信さんの息子ね……あんなところまで似るなんて……」
翔はやっとのことで叫び声の元へとたどり着いた。
「どうされ……」
彼はその場に立ち尽くす女性に声を掛けようと一歩近づいた。その時、足元に倒れる男性に気付き、声を掛けた。
「大丈夫ですか?聞こえますか?」
だが、反応はない。
鼻の近くに手を持っていき、胸やお腹を見ては呼吸の確認をする。問題なかった。だが、男性の額に粒のような汗がついている。
「脂汗……」
そっと額に触れると、まとわりつくような汗とともに、手にものすごい熱さを感じた。
「高熱……?すみません、カバン触らせてもらいますね」
男性の持ち物を見つけ、彼の情報を探す。すると女性が声を掛けてきた。
「あ、あの……勝手に触って大丈夫なんですか……?」
「大丈夫ですよ。私は警視庁の刑事です。この方の情報を集めるためにも荷物を確認させていただく必要があるんです。それと、申し訳ないですが救急車を呼んでくれますか?それと駅員も」
翔がそう言うと、女性は一一九番通報を始めた。彼女の隣に立つ男性は「俺は駅員さん呼んできます!」と動いてくれた。
「免許証あった!名前が……
彼は一つ一つ声に出して確認していく。
「坂田さん!聞こえます?」
軽く肩を叩きながら声を掛けるが返事はなかった。
「……秀一に電話……」
翔はひとりでに呟くと、スマホ片手に電話をかけていた。
『もしもし?どうかした?』
「秀一、急病人だ。一度しか言わないからよく聞いてくれ。額にまとわりつくような脂汗、かなりの高熱、呼吸と心拍に異状なし、意識なし、救急隊待ち。持病や内服薬等の情報はない」
『……体にあざはないか?内出血みたいなあざだ』
あざ……?
翔は言われた通り体を確認する。……これか?
「左上腕内側と右前腕内側に二センチ大の皮下出血ならある。これがどうかした?」
『やっぱり……。翔、よく聞いて。今、
よほど慌てているのだろうか。秀一は彼に用件だけを伝えると電話を切った。
「何が起こってるんだ……」
翔は男性に声を掛ける。だが、意識は戻らない。
「あの、救急車を呼んだんですけど……到着までに時間がかかるって……」
「分かりました。電話、ありがとうございます。皆さん、一旦……」
「遅くなって申し訳ありません!他の駅でも急病人が出て……」
慌てて走ってきたのは、駅員だった。
「警察の方は……」
「私です。警視庁捜査一課の生嶋です。ちょっと向こうでいいですか?」
翔は駅員に警察手帳を見せると、ホームの隅へと向かい、話しはじめた。
「他の駅でも同様の急病人が?」
「そうらしいんです。詳しいことは何も分からないんですが、ホームで何人も倒れたとかで……」
「このことは他言無用です。実は、知り合いの研究者から聞いたんですが……楯河区内で急病人が多発しているとのことで、どうやらほとんどの人が同じ症状をあらわしているそうなんです。何かの感染症かもしれない……救急隊が到着するまで、あの男性を隔離したいのですが……」
彼がそこまで言いかけた瞬間、またも叫び声が響いた。
「刑事さん!は、はやくこっちに!」
男性が呼ぶ。
慌てて向かうと、少し離れたところで女性が倒れていた。
翔はすぐさま状態を確認する。
「脂汗に高熱、意識障害……またか……」
そして、線路をまたいだ向かいのホームでも、女性が一人倒れた―――。
「何なんだ……これ……一体どうなってんだよ……」
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