第2話

 向島渡船が本土の桟橋に着岸した。

「滝川は、今日予備校だよね」

 船を降りて、早瀬は私に確認してくる。

 福山にある大きな予備校に、私は通っていた。早瀬も一年間通ってきた予備校だ。進路のことでいろいろ相談に乗りやすいと早瀬も絶賛していて、だから私もそこを選んだ。

「早瀬くんは、もう通わなくていいんだよね」

「いや、予備校の先生に報告したりするから」

「じゃあ福山まで一緒だね」

 私と早瀬は、異性同士として近すぎず、かといって離れすぎもしない適度な距離で、道路を挟んで向かい側の駅に向かう。

 改札を通り、福山方面のホームで電車を待つ。

私は英単語帳を取り出して、勉強を始めた。

 でも集中しきれなくて、早瀬のほうを盗み見る。早瀬は、小説を読み始めていた。最近刊行されたばかりの、普段読書をしないクラスメイトも名前は知っている作家の文庫本だ。

 幼い頃からずっと見てきた、本を読む早瀬の姿。もう立派な男になったけれど、両手で大事そうに本を読むところは幼い頃から変わらない。私にとって、早瀬はそばにいるのが当たり前の存在で、離ればなれになるなんて考えられなかった。

 四月になると早瀬は、この街から消える。

 ――受験に失敗したらよかったのに。

早瀬が浪人ということになったら、私はそれだけ、この街で彼と一緒にいられた。

 ……そんなことを考えるのはだめだ。

 応援していると言ったのだ。祝福しないと。

 電車の接近放送が流れ、やがて黄色い国鉄型の電車がホームに滑り込んできた。空気の抜ける音がして、ドアが開く。

「じゃあ、乗ろうか」

 早瀬は、電車に先に乗り込む。私もいったん車内に足を踏み込んだ。

「早瀬くん、言わないといけないこと、言うの忘れてた」

「ん? 何?」

 出発を知らせる笛が響く。

「あの、合格……」

 言うべき言葉は、たった五文字だ。だが、声に出すことができない。限界だ。胸の中の痛みに耐えられなくなってきた。

「ごめんなさい。何でもない」

 私はとっさに電車から降りた。直後、電車のドアが閉まる。早瀬は戸惑って、ドアの窓越しに私を見つめているが、彼を乗せた電車はそのまま走り出した。

 電車が完全に走り去り、降りた乗客たちもホームからいなくなる。

 ホームから見渡す街は、灰色に見えた。曇り空ということもあって、彩りを失っている。

 ――何をやっているのだろう。

 早瀬と一緒にいられる時間は本当に少ないのに。一秒すらも惜しいくらいなのに。

 私は無駄に長いホームの片隅で、柱の陰に隠れて、こっそりと泣いていた。

こんなことをして、私は早瀬をこの街に縛り付けようとでもしているのだろうか。引き留められるわけがないし、逆に困惑させてしまうだけなのに。

 早瀬はおとなしくて、小さい頃から本を読む姿ばかり見せてきたけれど、意外と表現欲求の強い男子だ。読書ノートに、読んだ小説の概要や魅力、登場人物の詳細を書き留めて、それを基に書評をブログに掲載していた。どんな気分のときにどんな本を読めばいいかわかりやすいとのことで、そのブログは万単位の読者を獲得している。

そのため出版社から発売前の新刊が献本として贈られてくるし、本の帯に、早瀬のコメントが掲載されたこともある。

 まだ誰も知らない物語を、みんなに伝えたい。

 早瀬は何度も、そんなことを言ってきた。

 だから早瀬が出版社、小説の編集者を目指すのは自然なことなのかもしれない。なら、東京の大学を目指すのも当然。

この街は狭くて、やれることに限界があるのだから。

 ひとしきり泣いたところで、私は鞄からスマホを取り出した。早瀬とのラインを開く。

『さっきはごめんなさい。遅くなっても、予備校にはちゃんと行くから』

 渡船に忘れ物をしたとか、急に飲み物が買いたくなったとか、変な言葉でごまかすと、余計に心配されそうだった。

 私のメッセージに、すぐに既読がついて返事がくる。

『長期休暇になったら、ちゃんとこっちに戻ってくるから』

 早瀬に東京へ行ってほしくないと思っていること、やっぱりばれていた。

 私は、さっき言いかけた五文字をスマホに打ち込もうとする。だが、指が止まった。

 こんな小さな画面で、手軽に祝福の言葉を送ったとしても、あまり早瀬に響かない気がしたから。ラインではぐらかしているみたいなのも、ちょっと卑怯な気がする。

 私はスマホを鞄にしまって、がらがらのホームで福山方面の次の電車を待ち続けていた。

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