空を飛んでおいしいジュースを飲めばいい

広河長綺

空を飛んでおいしいジュースを飲めばいい

あと一歩踏み出せば、念願の自殺が達成できる。


それなのに、どうして、足が動かないんだろう。


自問自答しながら、私は視線を下に向けた。風に揺れるスカートの下には、少し震える私の足が見える。

どうやら、心が死を望んでいても体は怖がっていたらしい。


仕方ないことかもしれなかった。


何しろ私の足先の数センチ前方には、地面がない。私は学校の屋上の端っこ、フェンスの向こう側に立っているのだから。この高さに足がすくむのも、自然なリアクションだった。


それでも死ななければならない。このまま毎日暴力をふるう父のいる自宅に帰っても地獄だ。

それに、ここまで自殺の準備を整えるために、器物損壊を色々してしまっている。


立ち入り禁止の屋上に入るために破壊したドア。

私が通れるように、穴をあけたフェンス。


ここで自殺を中断しても、学校の先生たちに叱られて、みじめなだけだ。


そんな風に考えることで、ついに、後ろ手でつかんでいたフェンスから手を離すことができた。あとはバランスを崩しただけで、あの世行き達成だ。


でも、それは余りにもカッコ悪い。最期くらい自分で決めようと思った。


深呼吸を繰り返し、体の重心を前に傾け始めたその時、背後から「奥田おくたさん、空を飛ぶつもりですか?」と名前を呼ばれた。


幻聴かと思ったが、振り返ると、実際に女の子が立っていた。ショートカットで目が大きい。顔立ちは中学生にしては子どもっぽくて、かわいい。きっと私とは違って、暴力をふるわない両親から愛情を受けて育ち、クラスメートみんなと仲が良いのだろう。私より人生が上手く行っていそうだと思った。


雰囲気でわかる。この子は、自殺しようとしている私のような暗い女とは無縁の存在だ。


「私に何か用?」ときくと「うん!私は晴代はるよと申すものですが、奥田愛実おくたまなみさんと話したいことがあるんです」と頷いた。


うんって。小学生か。


こんな天真爛漫な子と話す気分じゃないんだよと思いながら、「確かに私は奥田だけど、私は今から死ぬから、放っておいて」とできるだけ突っぱねるように言った。


「えー!死ぬつもりなんですか、ビックリです。でも、死なれたら恩返しができません。困りますー」


晴代と名乗る少女の瞳が、曇った。コロコロと表情が変わって可愛いが、それよりも引っかかる言葉がある。


「恩、返しって言った?」


「恩返しです」晴代は、本題に入れたことが嬉しいらしくニコっと笑った。「私は一週間前、奥田愛実さんに命を救われました。その恩返しをしにここにきたのです」


「誰かを助けた記憶ないけど…。1週間前のいつ?」


「夕方です」


「本当に私?」


「はい。奥田さんが私を助けてくれました」

元気溌剌な声で、晴代さんが答えた。


その様子をみているうちに、記憶が蘇ってきた。たぶん私は1週間前に命を救っている。


確かその日、下校途中の道で、車にひかれてケガをしている猫をみかけたのだ。トラネコだったのだが、血でオレンジ色の毛がどす黒く変色していて、手足がピクピクしていてとにかく可哀そうだった。


だから、車が来ていない時を見計らって、道路の脇に動かしてあげたのだ。


それ以上のことはできなかったのだが、あの後猫は助かったのか。


それより、晴代の用事は「猫の恩返し」だと言っているの?アニメかよ、と私は心の中でつっこんだ。


「じゃあ、晴代さんは、人間じゃないの?」


「はい」

晴代さんは、あっさりと頷いた。あまりにも自然体で、嘘に見えない。


確かに晴代さんの言動は、最初からずっとおかしかった。でも、「リアル猫の恩返し」なんて信じられるわけがない。


「じゃあ、晴代さんは人間じゃないから、私が空に飛ぼうとしてると勘違いしたの?」

晴代さんがリアルな存在だと確認したくて、とりあえず質問した。


「まぁ、そうですね。私たちはこの高さから落ちても死にませんし、そもそも自分から死のうとする発想がありません。奥田さんが悲しんでいるのはわかりましたが、高いところからジャンプして気分転換しようとしているのかと思いました」


「気分転換にジャンプって」私は思わず吹き出した。「人間じゃない生物は気楽でいいね。とにかく私はそんな気楽な状態じゃないから、恩返しはいらないの」


「うーん…、恩返しは絶対したいんですよねー…。よし!決めました。空へ連れていきます!」面白いイタズラを思いついた小学生のような笑顔で、晴代さんはたった今何かを決断したようだった。


嫌な予感がする。


「ちょっと何する気?」

と、私が疑問を口にした時には、すでに晴代さんはフェンスのにいた。


しかも私が頑張ってペンチで破った穴を通って、ではない。数メートルはあるフェンスのをジャンプで飛び越えていたのだ。


この子は本当に人間じゃないのか。


言葉を失う私に晴代は笑いかけ、「そんなに飛びたいなら一緒に飛びましょう!」と私に抱きつき、そのままジャンプした。


何の躊躇もない。


恐怖を感じる暇もなく、私の体は空へ放り出されてしまった。地面が下へ下へ遠ざかる。視界のほとんどが、青い空になっていく。


・・・あれ?なぜ、地面が遠くなるのだろう?飛び降り自殺したのなら、地面が近づくはずでは?


数秒経過し落ち着いて、違和感が湧いてきた私に、晴代は私の腰に手をまわしたままで「ね?飛べたでしょう」と得意げに胸を張った。


晴代は背後から私を抱きしめたままジャンプして、学校の屋上からさらに数十メートル上の高さまで私の体を持ち上げていた。


恐る恐る視線を下に向けると、校舎は米粒ほどの大きさになり学校周囲の道路が線のように見えた。あまりにも強烈な光景だったが、異様すぎて現実感が湧いてこない。おかげで高さの恐怖を感じずに済んだ。


体が上昇する反動として、強烈な風を上から受けることになり、私の髪、スカート、制服のシャツがバタバタとはためく。


正直言って、とても気持ち良かった。今までの人生で一番爽快な風だ。


学校や家から物理的に引き離された今なら、「自分はなんて小さな理由で命を捨てようとしていたのだろう」と思える。


「どうです?」晴代は嬉しそうに笑った。「良い気分転換でしょ?私はジュースをたくさん飲むんですけど、大ジャンプして、おいしいジュース飲めば大抵の嫌なことは忘れます。奥田さんも悲しいことがあったのなら、空を飛んでおいしいジュースを飲めばいいんです」


めちゃくちゃな事言ってると思ったが、空を飛んだ今なら素直に「ありがとう」と言えた。


感謝の言葉を聞いて、晴代も満足したらしい。そのまま地面にスッと着地して、互いに「バイバイ」して、夢のような時間はあっさり終わった。


でも空を飛んで軽くなった心はそのままで、私は昨日のような暗澹たる気持ちではなく、かなり前向きな気持ちで帰路を歩くことができた。


昨日の私ではあり得ないことだが、家に着く頃には「父に文句を言ってやろう」と決意していた。


私は高揚した気分のまま、アパートの自宅の前まで来た。


ドアを開けると、電気すらつけず酒を飲んでいたのか、自宅の奥の方が暗くて見えない。酒の匂いが奥から漂ってきて、鼻の奥を刺す。少しひるんだが、今日こそは父に文句を言うと決めていた。殴られたとしても「また空を飛んでおいしいジュースを飲めばいい」のだから。


晴代のめちゃくちゃな言葉を思い出すと、肩の力を抜くことができた。


「ねぇ、父さん…」と玄関で靴をぬぎながら声をかけた時、奥からドタドタという音が近づいてきて、次の瞬間私の体は後ろに吹き飛んでいた。


玄関の床に打ち付けられた背中も痛かったが、それよりもジンジンとした頬の痛みの方が強烈だった。


いきなりすぎて状況が把握できなかったが、どうやら私は思いっきり顔を殴られて後ろに吹き飛んでいたらしい。


私は毎日父に殴られてきていたが、今日は一番機嫌が悪いようだった。


晴代には申し訳ないけど今日は大人しくしていよう、と方針転換を決意したが、あまり意味はない。酒で錯乱した父の怒りに理由はないのだから。


痛みでフラフラしながら起き上がった私の腹を、父は思いっきり蹴った。

内臓が破れたんじゃないかという衝撃とともに、嘔吐しながら、私の体は再び後ろに吹き飛んだ。


今日の暴力は、昨日までと違って私をしつけるこじつけの理由すらなく、手加減が全くない。父の脳は本格的にアルコールで壊れていて、このままだと私は殺される。体感でわかった。


私は朦朧もうろうとする意識の中、何とか体を後ろに向けて、玄関のドアノブに手を伸ばした。しかし父は私の頭上で手を伸ばし、ドアチェーンを掛けてしまった。

その直後にドアが開いたが、もう遅い。私が最後の力を振り絞り必死の思いで開けたドアは、数センチだけ開いて、無情にもチェーンに止められた。


ダメだ。逃げられない。


力尽き再び玄関の床に転がった私を見下ろし、父は吠えた。比喩ではなく本当に猛獣と同じ感じで吠えていた。アルコール中毒に脳を破壊された父は、もはや人間的理性のない猛獣であり、私を見る目には凶暴さだけが見えた。


私が父の顔を見て絶望している時、だった。


「ニャー」

という鳴き声が外の方から聞こえた気がした。

始めは殴られたせいで頭が混乱して幻聴が聞こえたのだと思った。しかし2回目のニャーで、さすがに声の方へ、つまりドアの隙間に顔を向けた。


すると声の主がわかった。

チェーンで少しだけ開くドアのすぐ外に、1週間前私が助けたトラネコがいたのだ。


私を助けに来てくれたのだろう。本当に、「ネコの恩返し」だった。


しかし、間に合わない。猫がいかにスリムで、隙間を通る生き物と言ってもドアチェーンがかかったドアの隙間はあまりに狭すぎる。


私を殺そうと近づく父。


私が死を覚悟し目を伏せた時、床を何かが蠢いているのが見えた。小さな点に見えたそれは列を作り、ドアの隙間から家の中へと微小サイズの行進をしている。


虫だった。かろうじて肉眼で見えるほどの小さい虫が列を作り、家の中へ入ってきている。


そして父の足元に来た時、ジャンプした。


錯乱している父も、さすがに飛び掛かられたら気づく。


「なんだこれ!!」と叫びながら払いのけるも、数が多すぎる。何匹かは父の足に到達し、体が膨らみ始めた。


父の血を吸っている。私を助けてくれている。


朦朧もうろうとしていた私も、ここにきて、やっと気づいた。虫たちがノミであること、晴代が自身を猫と名乗っていないこと、猫を救命することはネコノミを救命するのと同義なことに。


――空を飛んでおいしいジュースを飲めばいい

あの言葉は、今思えば、大ジャンプして吸血するノミの生態そのものだった。


ノミは自身の身長の200倍の高さまでジャンプする脚力があること。ノミのメスは産卵のために多量に吸血しなければいけないこと。


いつか聞いたノミの生態の話を思い出している間に、晴代たちは父に飛び掛かり続けていた。


晴代が率いるノミ軍団はあまりにも数が多く、父が必死に払いのけているにも関わらず、体を覆う面積が増えていく。


数分後、父の足先から顔面まで、全ての皮膚表面をノミが埋め尽くし、満を持して一斉の吸血が開始された。


とんでもない数のノミにチューチューと体液を奪われて、父の体は空気が抜けていく風船のようにしぼんでいった。


呆然としている私の前で、最終的に父の体はカスカスの枯れ葉のような、数センチしかないゴミになった。


「奥田さん元気でね!」

食事を終えたノミたちの中の1匹から、晴代さんの声がした。満足そうな晴代さんは、私を空へ連れて行ってくれたその足で、ピョンピョン飛んで猫の背中へ帰っていく。


シンプルだけど上を向いている晴代たちの生き様はとても美しく、私も自分なりに空を飛んでおいしいジュースを飲んで生きていこうと思った。

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