第2話

「教授、なぜお辞めになられたのですか?」


 ひさしぶりに尋ねてきた牧村は、口を開くなりそう言った。


 いきなりのぶしつけな質問。

 私は苦笑いを張りつけたまま、まずソファーに座るよう進めた。


「もう教授じゃないよ。晴れて定年退職だ」


 牧村は、私がまだ某私立大学物の理学部教授だったころの、直属の部下だった。


 現在は私の後を継いで、大学きっての名物教授として名をはせている。


「でも、名誉教授の職につくことも可能だったでしょうに」


 私は大学の留任要請を蹴って東京にある自宅へ帰郷した。

 どうやら牧村は、それにたいそう腹を立てているらしい。

 なにしろ誰にも相談せず、いきなり教授会に退任届けを提出したのだ。


 牧村にとっても寝耳に水だったはず。

 助教授として教授会に代理出席させられた牧村。

 その、あっけにとられた顔を思いだすたびに、つい不謹慎な笑いがこみ上げてくる。


 その後……。

 私が突然に、東京の国分寺にある自宅で会いたいと連絡した。

 意気込んでやってくるのも当前だった。


「長崎に帰るよ。もう決心したんだ」


 そういってすぐに、「悪かった相談もせずに」とつけ加える。


「御実家が見つかったんですか」


「ああ、まず間違いない。もちろん建物は新しいものだけどね」


「教授はいつもおっしゃってましたね。自分は原爆で吹っ飛ばされた家を、絶対にもう一度手にいれるんだって」


 牧村は注意したにもかかわらず、教授と呼ぶのをやめなかった。


 学内では派手好きと陰口を叩かれるこの男だが。

 私の前では、ただの真面目な後輩にすぎない。


「大家との交渉にずいぶんと手間取ってしまった。でも、やっと土地ごと買うことができたよ。つい先日、夏休みの休暇を利用して現地にも足を運んで確認してきた。まちがいなくあそこは私の家が建っていた場所だ」


 私はやっとのことで、自分の実家のあった土地を手にいれた。

 その興奮を思いだし、つい言葉に力が入ってしまった。

 すぐに年甲斐もないと照れ、誤魔化すために話題をかえた。


「ところで……最近の君の研究、よくテレビで見ているよ。一般向けにプラズマ理論を説明するところなど、とても感心した」


 牧村はここのところ、よくテレビに出演している。

 それもお堅い学術番組などではない。

 いわゆる超常現象などを扱う俗悪番組専門である。


「おずかしいかぎりです。ぼくは根が物好きなものでして、出演要請があると断われない性分なんですよ」


「いやいや。部屋にこもって本を書くだけが学者の務めじゃないさ。それにああいう迷信妄想のたぐいに科学のメスをいれることこそ、まっとうな科学者の役目だと思う」


「そう言っていただけると、なんだか肩の荷がおりるようです」


 心底、ほっとしたような表情になる。

 牧村は日ごろから、肩肘張って堅物学者と対決している。

 そのため、思いもよらぬ気弱な一面を見たような気がした。


「じつはそのことで、折り入って君に頼みがあるんだ」


 いきなり私は、すこし声を落として本題に入った。

 牧村は怪訝けげんな表情で、私の話がはじまるのを待っている。


 それは夏のはじめに帰郷したときの体験から始まった。



     ※※※


 今年の七月……。

 私は無理を承知で、長崎の不動産屋に申し出た。


 あわただしい帰郷日程の中。

 せめて一晩なりと、実家のあった場所ですごしたいと思ったのだ。


 その願いは大家に伝えられ、東京に帰る前日、やっと実現することになった。


 あいにくその夜は雨だった。


 実家の土地に立っている家は、すでに空き家になっている。

 そこへ、レンタルした寝袋を借りて泊まりこむことにした。


 この歳で寝袋とは、なんとも辛いものがある。

 だが布団など持ちこめないほど屋内が荒れていたのだ。


 爆心地のすぐ近く――。

 旧帝国大学医学部のあった丘に近い実家。

 そこからは長崎湾が一望にできた。


 夜ともなれば百万ドルの夜景と歌われた港の景色。

 きらびやかな人の営みが、手に取るように見えるはずだ。


 それを見ることは、たってからの願いだった。

 それだけに、突然の夕立ちには、おおいに腹が立った。


 夜半になっても、猛烈な雷雨は衰えることを知らなかった。


 東京の夕立ちとは比べものにならない。

 まるで熱帯のスコールを思わせる激しさで雨はふり続いた。


 私は縁がわに腰をかけ。

 水飛沫しぶきがかかるのも気にせずに。

 じっと、かつて玄関だった庭を眺めていた。


 庭は手入れもされておらず、雨に濡れた夏草が生い茂っている。


 四十年以上も前。

 そこにはおふくろが立っていた。


 我が家の電話は、玄関口の柱に取りつけてあった。


 おふくろはそこで送話機の把手ハンドルを回し。

 熊本に住む姉の電話を呼び出したはずだ。


 そしてあの日――。


 混信のため聞き取りにくい受話器を通して。

 たしかにおふくろと私は。

 一本の電話線によってつながっていた。


 そして……。

 それをたち切ったのが、あの禍々しい原子雲だった。


 じっと眺めているだけで、さまざまな追憶が浮かんでは消えた。

 もの思いに耽っているうちに、雨は次第に小ぶりになってきた。


 天空にはまだ、間断なく紫電がきらめいている。

 だが、たたきつけるような集中豪雨だけはどうやら峠を越えたらしかった。


 と、その時。


 空を染めあげた雷光が消え、眩んだ目がようやく収まりかけた頃。


 目の前にふわふわと光球が漂ってきた。


 光球は、私のたたずんでいる軒先の上から舞いおりてきた。

 ゆっくりと庭のほうへと移動していく。


 大きさは明るく輝くバスケットボールくらい。

 周囲には、ひと抱えもあるオレンジ色の光輪がまとわりついている。


 そして光輪は、火の玉よろしく長々と尾を引いていた。

 生まれて初めて見る、いわゆる人魂ひとだまだった。


 永年の学者生活にも関わらず。

 私は驚きと狼狽に直面し。

 なすすべもなくただ茫然とそれを見守った。


 火の玉はかつての玄関口の場所に近づくと、急に速度を増して降下した。


 そのまま。

 すっと消えた。


 ちょうどその時。

 私は、ありえない音を聞いた。


 火の玉の消えたその場所から――。


 かすかに、しかしはっきりと聞こえた。


「良太郎、良太郎……」


 まちがいようのない、おふくろの声。

 それが聞こえてきたのだ。


 声は火の玉が消え失せると同時に、ふっつりと跡絶えた。

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