ささやきの彼方
羅門祐人
第1話
★初出:徳間書店『SFアドベンチャー』誌 1991年5月号。
★書籍:未掲載。
★改稿:2023年5月(電子書籍用)
「もしもし良太郎、聞こえとるね」
耳にあてたラッパ型の受話器。
そこから、かすかにおふくろの声が聞こえてきた。
その声は遠く……。
ともすれば、ザリザリという耳ざわりな混信の音にかき消されてしまいそうだ。
水中で聞く潮騒のざわめきに似たその中で。
おふくろの声は、悲しいほどかすかにしか聞こえてこない。
ゆえに私は。
柱に取りつけられた木製の送話機に口を近づけ。
大きな声で怒鳴らなければならなかった。
「よう聞こえん。母さん、こっちの声は聞こえるね」
昭和二十年八月。
その頃の私は熊本市に住んでいた。
五高と呼ばれる旧制高校にかよう学生だった。
長崎にある実家。
そこから毎月のように仕送りをしてもらい。
戦時中だというのに。
それを
だが……。
親の期待とは裏腹に、私の学業は少しも進まなかった。
なぜなら、そのころの日本は、それどころではなかったからだ。
いまや敗戦にむかって、まっしぐらに転げ落ちている最中。
そのとばっちりは、市内にある五高にも及び……。
とどのつまり。
たび重なる空襲のため、とても勉学などできる状態ではなかったのだ。
そこで私は、市の南にある親戚の家に居候することに決めた。
そそくさと荷物をまとめると学生寮を出た。
「良太郎、飯はちゃんと食べとるかの。梶の姉さんには迷惑掛けとらんかいの」
「ちゃんと食べとる。それより、よう聞こえん。もうちっと大きゅう言ってくれんね」
伯母の嫁ぎ先にあたる梶家。
有明海に面した村でちょっとした配給所をしていた。
私はそこの二階の六畳間を借りた。
おふくろが仕送りしてくる金のすべてと引きかえに、二食のまかない付きで住まわせてもらった。
もちろんその時分には……。
いくら金を出しても食物など金輪際手にはいらなかった。
親戚に食わせてもらうか、物々交換だけが生きる手段となっていたのだ。
しがない学生の私は、交換に価する品など持っていなかった。
梶家もそのことは充分に承知していた。
なので、仕送りの金をだまって受け取るだけで、あとは何ひとつ言わなかった。
ひんやりとした土間のむこう――。
配給所を兼ねた店先につうじる勝手口。
そこから、じぃじぃとやかましく
風はそよとも吹かず、気温と湿度はまだ午前中だというのにうんざりするほど高かった。
「電話、遠いけんね。良太郎、これでいいかね、良太郎、良太郎……」
唐突に、ブッという音をたてて声が跡絶えた。
「おふくろ……もしもし、どげんしたんね。もしもし、もしもし」
返事はなかった。
受話器はそれきり黙りこくり。
あれほどうるさかった混信さえ、かき消すように無くなってしまった。
何が起こったのかわからない。
しばしの間、受話器を耳に押しあて土間に立ちつくした。
――うぁん。
大気がうなりをあげた。
空気をゼラチン状に凝固させ、それをおもいっきりぶっ叩いたような感じがした。
庭で犬がうるさく鳴きはじめる。
台所のガラス窓が一枚、けたたましい音をたてて粉々に砕け散った。
地震でもないのに……。
障子に張られた和紙が、びりびりと小刻みに震えている。
それはたぶん、十秒以上続いたような気がした。
「おーい、誰かぁ!」
外で男の叫ぶ声がした。
すぐにそれは、数人のざわめく声となった。
私は誘われるように玄関を飛びだした。
なにも考えず、声のした方向をさがし求めた。
男たちは、配給所の前にある小高い
干満の差が激しい有明海から田園を守るため。
そこには長大な堤防が築かれていた。
私はそこに至る長い階段を駆けのぼった。
男たちが騒ぎながら指さしている海の彼方を見た。
大気は透きとおっていて。
海をはさんで、すぐむこうに雲仙の峰々が雄々しくそそりたっている。
その丸っこい頂上のすぐ右側に、見なれぬ雲がわきおこっていた。
灰色と紫のまだら模様……。
所々に真っ黒な染みを張りつけたそれは。
茸か南瓜のような頂上部の下に、巨大な雲の柱をともなっている。
そしてそれは、なおも天高く身を持ちあげようともがいていた。
「ありゃ、こないだ広島に落ちた新型爆弾じゃなかと?」
郵便局に勤めている、物知りで口の軽い男がそう言った。
しかしその場にいるだれも。
私でさえそれを信じようとはしなかった。
雲仙岳の噴火だ。
いやあれは、帝国海軍の新兵器の実験だ。
それぞれ声高に言いあっている。
たちまち信用の薄い局員の意見など、どこかに追いやられてしまった。
そして私の実家と家族とふるさと――。
人生を育んできたあらゆるもの。
原爆は、それらを根こそぎ奪っていった。
ただし……。
原爆のことを知ったのは、それからかなり後のことだった。
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