第2話 児童養護施設


 軽バンのフロントガラス越しに見える空は、ねずみ色の雲が蜷局とぐろを巻いているように見えた。


 台風でも接近していたか?


 俺は、軽バンのナビを操作してラジオに切り替えた。天気予報のお姉さんが、今日の午前中の降水確率が40%だと告げていた。雨が降り出すかどうか微妙な数字だ。今日は大安吉日、引っ越しが終わるまで天気はもってくれると信じよう。俺は少しだけアクセルを踏み込んだ。


 児童養護施設で育った妹の夢は、児童養護施設を出て独立して兄妹で暮らすというものだった。俺は、3年前に高校を卒業し働き始めていた。妹のナオは、今年で高校3年生になる。今後の進路によっては、もう二人で暮らすこともないだろう。短い期間かもしれないが夢を叶えてあげるため、ナオを引き取り一緒に生活することにしたのだ。


 今日は、そのための引っ越しの日だ。朝一番で、ナオを施設からピックアップし、ナオの私物を部屋に搬入する。荷物を配置してみて、足りないものがあれば、近くのホームセンターで買い足す予定だ。


 施設の看板が右手に見えてきた。看板を取り過ぎ信号機のない十字路を左に曲がれば、俺たちが育った児童養護施設が見えてくる。


 俺は、アクセルから足を離し減速して、ハンドルを左に切った。道の右側は、稲刈りの終わった田んぼだ。昔は、よく泥だらけになって駆け回って院長に叱られたことを思い出す。200メートルほど先に、見覚えの無い高級外車が路上駐車していた。ちょうど施設の前あたりだ。


 誰だろうか。裕福な里親にもらわれていく子どもがいるのだろうか。


 俺は、高級車の後ろに余裕をもって軽バンを止めた。外に出て、高級車と見比べて見ても俺の軽バンは見劣りしないと思えた。こちらのほうが断然コスパに優れているとさえ思う。ローンがまだ残っているのが玉に瑕だが、洗車したての白色の車体は、このくもり空の下でも輝いて見えた。明日からも、さらに気合を入れて、この軽バンに荷物をたくさん積んで配達して回ろう。


 個人事業主で、荷物の配達ドライバーが俺の職業だ。働けば働いただけ収入が増える。シンプルさも気に入っていた。ただし、貧乏暇なし。仕事の忙しさにかまけて、この施設に来るのも久しぶりだった。


 元気な声が聞こえてきた。子どもたちが庭で遊んでいるのだろう。俺は、施設の門をくぐった。サッカーボールが俺の足元に転がってきた。一人の男の子が、このボールを追ってきたが、俺を見て立ち止まった。俺は、ボールを右足一本でリフティングしてみせた。


 軸足となった左足に痛みが走った。我慢できない痛みではない。ときたまなにかの調子で神経に障るといった程度の痛みだ。


 サッカーをしていた子どもたちが、「おお」と歓声を上げた。


 痛みをこらえ無理に笑顔をつくり子供に「パス」と言ってボールを蹴って渡す。


 施設の玄関が開いた。


 ナオが、アルバイト先の薬局で使う白衣を腕にかけ制服姿で出てきた。背中にはリュックを背負い、片手に手提げ袋、もう一方の手は一輪車のサドルに置かれていた。


 兄としては、少し痩せ過ぎだと思うが、本人はこれぐらいが良いと思っているらしい。腰まであるつややかな黒髪。贔屓目にみてもかわいい。いつも笑顔が絶えない自慢の妹だ。


「ケンにい、時間通り」


「タイムイズマネー。仕事は、きっちりが信条だからな。ところで、その一輪車も持っていくのか」


「ケン兄より一輪車が上手だったのは、今でも自慢だから」


「邪魔だから、置いていけよ。そんなの買い物とかに使えないだろう」


「ダメよ。これは私のプライドだから」


 ナオがちょっと後ろを振り返ってから笑った。ナオの後ろから、院長先生が顔を出した。


「やっぱり兄妹ね。何か通じるものがあるのかしら」


「ご無沙汰しています。先生。どうしてですか」


 50過ぎのちょっと太めの先生は口に手をあて笑った。


「だって、ナオちゃんが『お兄ちゃんがもうそろそろ来そうだ』っていうから出てみたら、ほんとに来ているんですもの」


 ナオが、手提げ袋の一つを俺に押し付けてきた。


「ひとつ荷物もって」


「ナオちゃんまでいなくなると寂しくなるわ。まさか、ケンちゃんが宣言通り就職してたった3年でナオちゃんを迎えにやってくるとは、ほんとうに思わなかった。頑張ったのね」


 先生は、うっすらと目に涙を浮かべていた。相変わらず、感情の起伏が激しい。


「ところで、表に高級車が止まっていますが、どなたかいらっしゃっているのですか。もしも、荷物運びがあるなら、手伝いますよ」


 先生とナオの顔色がさっと変わった。先生の後ろから、ダンボール箱を持ったスーツ姿の男が現れた。


「久しぶり、ケン」


 外で遊んでいた子供たちが男の姿を見つけて一斉に歓声を上げた。


「おお、すげえ本物じゃん」


「サインほしい」


 現れたのは、スペインのサッカークラブチームで活躍するサッカー選手であり、未来の日本代表選手であり、俺とナオの幼馴染であり、そして俺の未来を奪っていった男だった。


「セイジ。てめえ」


 先生は、俺とセイジの間に入るようにさっと移動した。それは、あらかじめ予想していたセイジを俺から守る動きだった。あまりにも完璧な動きだったので、有名人に怪我をさせてはいけないという思惑が透けて見え、俺をさらに惨めな気持ちにさせた。


「玄関で立ち話もなんだから、ねえ、中に入って、みんなでお茶でも飲みましょう」


 自分でもびっくりするくらい冷たい声が出た。


「先生、結構です。ナオ、荷物を運んで行くぞ」


「待てよ、ケン」


「うるさい、お前と話すことなどない」


「俺は、ナオが高校を卒業したら、結婚したいと思っている」


「はあっ?」


「ちょっとセイジ。お兄ちゃんの前で止めて」


「俺は、ナオの事が好きだ。愛している。絶対に幸せにしてみせる」


「ふざけるな。お前はまた、おれから大切なものを奪おうとするのか」


 頭に血が上るのが自分でもわかった。左足の古傷がこれまでになくうずき始めた。痛みとしびれが混じったような苦痛だった。


 だが、今は俺の左足などどうでもいい。


(こいつを殴れ) 


 どこから浮かび上がってきたのかわからないが、その声に従い俺は、左足を引きずりながら、意味もなく大声をあげてセイジに突っ込んでいった。


「やめて、お兄ちゃんも、セイジも」


 ナオと先生が、同時に俺の胴体にしがみついた。ナオが絶叫した。


「セイジ、帰って。お願い、今日は、帰って」


 俺は、ナオと先生に押し戻され玄関脇に押し付けられた。情けない。女性二人を押しのけて、セイジのところに行くことさえ、この足ではできないのか。


「そうよ。セイジくん。今日はひとまず帰りなさい。いきなり、そんな話をするもんじゃないわ」


「わかりました。すみません。帰ります」


「おい、待て、このやろう。お前は、俺から夢だけじゃなく、生きる希望も取り上げるつもりか」


 セイジが、俺の脇を通る時、俺の前でとまった。


「その足のことは済まないと思っている」


「ふざけるな。何が済まないだ」


「お兄ちゃん、やめて」


 とうとうナオが泣き出した。セイジは、胸を張り、俺の正面に立った。


「この際だ、言わせてもらう。お前は、いつまで過去に囚われているんだ。前、向けよ。お前はこんなもんじゃねえのは、幼馴染の俺が一番知っている。その足だって、医者は何も問題ないって。足が治らないのは、お前の心が弱いからだ。足が痛ければ、ナオの気を引いておける。可愛そうな兄を演じてナオの人生を縛っておける。結局、ナオに甘えてんだ。お前は、自分の人生をちゃんと責任を持って生きろよ」


「テメエが人生語るなんて、上等だ、テメエ」


 俺は、右拳を振り上げた。セイジは、いくらでも後ろに逃げられたのだろうが、俺の力のこもらない腰の引けた拳を顔面で受け止めた。


「イヤー」


 ナオが叫んだ。セイジは、殴られても、俺を睨んだまま動かなかった。外で遊んでいた子どもたちも数人が泣き出していた。どうして、みんな泣く。泣きたいのは俺の方だ。


 ポツポツと、小雨が降り出した。


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