「爪を噛むのをやめたいんです」


 先生、わたし、爪を噛むのをやめたいんです。どうして爪を噛んでしまうのかわからなくて、いつも爪がギザギザになってしまって。だから、ほら、見てください。腕とか脚とか、傷だらけになるんです。ストッキングはすぐ伝線しちゃうし、服もレースとかダメにしちゃうし。

 

 早く治したいんです。本当に、わたし、病気なんです。爪を噛む病気。そういう病気ありそうじゃないですか。なんとか症候群みたいな。

 

 だって、おかしいじゃないですか。皆爪を噛まなくたって毎日過ごせるんでしょう。わたしだけなんです、こんなに爪を噛んでしまうの。しかも突然始まったんです、今まで爪を噛むことなんて殆どなかったし。会社でも、家でも、わたしだけなんです。

 母とか友達とか同僚とか、皆「やめろ」って言うだけで、どうやったらやめられるのか教えてくれない。こんなのやめられるなら今すぐにでもやめたいのに……あっ、また。


 噛んでたでしょ、ねえ、先生。見たでしょ、わたし、爪を噛むのをやめたいって相談してる時に爪を噛むなんて。異常なんです、はやくやめたい、ねえやめたいんです。



 ◇◇◇


「あの人、本当におかしいですよ西高先生」


 受付の真壁さんが顔をしかめてそう言いながら、椅子の黒ずみを拭いている。

 メンタルクリニックの医師である以上、様々な患者さんを見ているが、真壁さんの言う通り彼女、釣本さんは少し異様だった。


「あーだめ。やっぱり乾いた血は拭くだけじゃ落ちないです。とりあえず休憩室の椅子と交換しときますから」

「お願いします」


 カウンセリング室に入ってきた釣本さんは、手指の爪十本ともに絆創膏を貼っていた。

 あらかじめ記入された問診票を元に話を聞こうと


「それでは釣本さんのお話を聞かせていただけますか」


という質問をしたことを皮切りに、彼女のマシンガントークが始まった。ちなみに問診票にも赤茶色の跡がところどころ付いていた。

 

 様々なタイプの方が相談に来られるが、こんなにも自分の話を止めどなく話し続ける方は珍しかった。

 

 そして何より異様だったのは「爪を噛むのをやめたい」と言いながら、爪を噛み続ける姿だった。最初から最後まで、息継ぎの度に絆創膏ごと齧りつき、ゴリゴリと音をさせながら爪を噛み続けた。

 

 爪は深爪どころか、殆ど指が剥き出しの状態で、勿論出血しているので椅子に手が触れる度、跡がついた。


 最後の最後に「また爪を噛んでしまった」と気付いた様子だったが、見ているこちらからしたら最初から爪を噛んでいる彼女が、今更何を言ってるんだ、という気持ちにさせられた。


「安定剤を処方しますので様子を見てみましょう」

 

 結局、原因がわからないならば副作用の酷くない安定剤を処方するしかない。些か乱暴に聞こえるかもしれないが、まともにお話ができなくて、かつ何かしらの処置が必要な方には、短期間の投薬を行ってお話ができるようになってもらうしかない。

 

「次は一週間後ですけど、落ち着いてらっしゃるといいですね」 

 

 真壁さんは、心底嫌そうな顔でそう言って、休憩室の血痕のない椅子を僕の前に置いた。

 

 

 △△△

 

 先生、わたし、爪を噛むのをやめたいんです。先生の下さったお薬、全然ダメでした。ほら、酷くなってます。見てください。ねぇ、先生、ちゃんと見て。先生の所為でわたし、殆ど爪がなくなってしまいました。

 

 ほら、ほら! 困ってるんです、何とかしてください!

 

 なんですか? 紹介状? 別の病院に行けってことですか? ……わかりました。やっぱりわたし、病気なんですね。

 なんでもいいです。病院だって、どこだって。はやくやめたい、ねえやめたいんです。

 

 ◇◇◇

 

 釣本さんの症状は悪化していた。見せつけられた手指は血塗れで、爪がなかったのだ。それでも、今日も彼女は噛んでいた。もはや爪ではなく、指の肉を噛んでいたのだった。

 

 一週間でこんなに悪化することがあるのかと、思わず言葉を失ってしまう。

 自分の手には負えないと悟り、大病院の紹介状を書くと伝えたところ、意外にもすんなりと彼女は受け入れた。

 精神科も脳外科もある総合病院の紹介状を書き、真壁さんに受付で渡してもらうようにお願いした。

 

 せっかく黒ずみが落ちた椅子に、再び血痕が付いているのを見て、思わず深い溜め息を吐いた。

 

  ▽▽▽

 

 先生、私言ったじゃないですか。あの人はおかしいって。異常ですって。

 またこんなに血塗れにして、拭いても拭いても酷くなるばっかり!

 

 ああもう嫌! 頭がおかしくなりそう! 西高先生、私もう帰ります、早退しますから!

 ああもう嫌! 嫌嫌嫌嫌嫌嫌!

 

 ◇◇◇


 釣本さんが帰って午前診察が終わり、真壁さんにもう一度休憩室の椅子と交換をお願いした瞬間、真壁さんが絶叫した。

 

 状況が飲み込めない自分に背を向けたまま、真壁さんはところどころ茶色くなったタオルで、汚れた椅子を乱暴に拭く。拭かれた椅子は綺麗になるどころか、ますます血痕が増えていた。


「ああもう嫌! 嫌嫌嫌嫌嫌嫌!」

 

 叫ぶ真壁さんがこちらを振り返った。彼女は右手の親指から血が滲む程、爪を噛んでいた。いや、親指の爪は殆どもうないから、指を噛んでいると言っても過言でない。釣本さんと同じ症状だった。

 

 思えば、前に釣本さんが来てから、お喋りだった真壁さんの口数が減った。

 

 そもそも、患者さんに対してあんなことを言う人じゃなかったのに。釣本さんが真壁さんをおかしくしたとしか思えなかった。

 

 叫びながら飛び出して行った真壁さんを追いかけようと、診察室から出て呆然とした。

 受付の白いカウンターが、血痕だらけになっていたのだ。

 

「どうしてこんなことに」

 

 思わず呟いた言葉の後に、ゴリッと鈍い音が聞こえた。

 それは、自分で自分の爪を噛んだ音だった。


  

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