憂さ晴らし
【う】
「ウソつき」
その幼い響きが、自分の胸を締め付けて、離してくれない。彼女は泣きながら、目と鼻の頭を真っ赤にさせて、悲しみを堪えるように呟く。
「ごめん」
謝るということは、正式に嘘を吐いたと認めることだ。もしかしたら、不恰好に言い訳を連ねる方が、良かったのかもしれない。嘘だと自分が認めたことで、彼女の赤くなった眼は、今度は絶望に染まる。
「どうして」
祈るような声色は、それこそ、嘘でもいいから「あれは俺じゃなかったんだよ」と言ってほしかったに違いない。けれど、俺は何も言葉を発せない。自分のためにはあんなに簡単に吐けた嘘が、彼女のために吐こうとすると、喉をしめきったみたいに声が出ない。
「もういい」
そう言って、彼女は、諦めてしまった。何を諦めたか、それは、俺のことを、だ。
「さよなら」
立ち去る彼女を引き留めることもできず、ただ見ているだけの自分は、最初に彼女とした「ずっと、君と一緒にいるよ」という約束すら破ってしまった、ただのウソつきだ。
【さ】
「さよなら」
そう、別れの言葉を告げたのは、何もあなたを突き放すためではなかった。「今から私は立ち去ろうとする、だからそれを引き留めてね」というメッセージを込めた言葉だったのだ。
それなのに、呆然と見つめるだけのあなたに、「この人は、自分のために嘘は吐けても私の為には嘘すら吐こうとしないのね」と何度めかわからない絶望を感じた。
「だから言ったじゃない」
その呆れを含んだ声色に、身勝手にも腹を立てそうになったが、彼女には悪意がないことはわかっているので、ぐっと
「だって好きだったんだもん」
彼女からの忠告を再三無視し、彼と恋仲になったのは私の選択。恋は盲目、あばたもえくぼ。それでも「好き」では覆い隠せない程、彼は私を裏切り、悲しませ、引き留めもしなかった。
「馬鹿だなあ」
じわりじわりと視界が滲み、下を向いた時に降ってきた言葉は、その意味には似つかわしくないくらいに優しくて慈しみに溢れていた。その優しさと慈しみに背中を押してもらった所為で、私は往来にも関わらず、年甲斐もなく大泣きする羽目になったのだった。
【ば】
「馬鹿だなあ」
友人が屑みたいでヒモみたいな男と別れて、あたしは心からそれを祝福した。初めから、まったく釣り合っていなかったのに、聞く耳をもたなかったこの子も、漸く目が覚めたみたい。もう一度言う。
「馬鹿だなあ」
彼女にはもっと
「あんたにはもっと良い相手がいるよ」
本当は、あたしのものになってほしいけど、それは叶いそうにないから。手に入らないならせめて、諦められる相手にしてよ。そういう相手を選んでよ、お願い。
「ありがとね」
そうはにかんで言った彼女の口から「あんたが男だったら良かったのに」なんて、残酷で光栄なお言葉を頂戴した。あたしが何度そう思ったかなんて気づかないままで。
「またなんかあったらすぐ言って」
彼女を家まで送った帰り道、突然後ろから腕を掴まれた。ぐるりと振り返れば、そこにいたのは、鬼の形相のゴミ屑でヒモでジゴロな男だった。
「乱暴な人ね」
鼻で笑ってそう言えば、より一層眉間の皺が濃くなった。実物を前に、私はホッと一安心。何故かって。やはりあたしの見立てに間違いはなく、この男は彼女に相応しくないことを再確認したからだ。
【ら】
「乱暴な人ね」
そう、彼女と自分の仲を引き裂いた女は嘲笑うように言った。この女の所為で、自分は彼女と離れ離れになってしまった。その
「気持ち悪い」
何も言わずに睨み付ける自分の腕を振り払い、その女は心底嫌そうに吐き捨てた。
どうして、どうして。
「どうして、彼女に言ったんだ」
この女は、あの日は長い髪に濃いメイクをしていた。今みたいに、短髪で薄化粧なんかではなかった。その所為で、油断した。そういうことが好きな女なのだと思った。だから、誘われるがままに遊んだ。楽しくて、気持ち良い遊びをしたのだ。
「どうして、彼女の友達だって言わなかったんだ」
そうしてまんまとお遊びの現場を収めた写真を、この女は友人である彼女に渡した。彼女は怒って俺に詰め寄り、俺は何も言えなかった。この女と遊ぶ為に、
「会いたい」
と言った彼女に、仕事があると嘘を吐いた。
そうして、その嘘がばれてしまったのだ。すべて、この女の所為で。
「強いて言うなら、憂さ晴らし」
涼しい顔で、訳のわからないことを言う、この女の所為で!
「死んじまえ」
思わず漏れでた本音に、女は怒るどころか嬉しそうに笑った。
【し】
「死んじまえ」
それはこの馬鹿な男の、最後の悪あがきなのだと思った。低能で、その癖自信家の、この男らしい悪あがき。
「あんたこそ、とっととくたばれ」
勝ち誇ったようにそう言えば、かっと目を見開き、こちらに向かってきた。手を出されたなら訴訟上等。どこまでも追い詰めてやる。それほど、あの子に手を出した罪は重い。
「お前も、終わりだ」
勢いよく近付いてきたのは拳ではなく顔で、皮膚と皮膚がくっくつギリギリのところで止まって、そんな負け惜しみを呟いた。
「どういう意味だ」
そう、尋ねようとした、あたしの名前を可憐な声が呼んだ。その場にはいないはずの、大切な声が、もう一度、あたしと屑野郎の名前を呼んだ。
「ウソでしょ」
振り返った先には、思い描いた通りの人物。いや待て、なんで。どうして彼女が。偶然、彼女が通りかかったか、必然的にここへ呼び出されたか。答えは決まってる、後者だ。
「お前! なんで、こんな!」
動揺止まらない中、とりあえず糞野郎を威圧せねば。そう向き直ったら、逝っちゃった眼で、
「強いて言うなら、憂さ晴らし」
なんて、神経逆撫でするリピートを。こんな奴、後回しだ。話せば、わかる。だって、あたしたちは親友だ。恋人にはなれないが、親友なのだ。
「ウソつき」
再び振り返った先には、あたしを憎しみに満ちた眼で睨み付ける想い人。違う、ねえ、違うのよ。そう言いたかったのに、言葉は決して、喉をくぐって出てはこなかった。
【う】
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