嗤う白鬼

 僕、中田涼は今日、たくさんのものを失いました。大切にしてきたものを、殆ど奪い尽くされ、それを取り戻す術もなく、この状況から逃げ出すこともできません。


 どうしてこんなことになってしまったか、どうか、どうか聞いて下さいませんか。





「僕のこと、覚えてる?」


 彼に会った、いえ、正確に言えば再会したのは、大学二回生の春でした。授業終わりに恐る恐る声を掛けて来た彼は、大学での友人知人ではなく、


「失礼ですけど、どちら様ですか」


と問い返した僕に、少し傷ついた様子でした。そして、小学四年の時に、転校した、と小さな声でぽつりぽつりと情報を零し始めました。


 もう一度、まじまじと彼の顔を見詰めて、大きな黒目がちの瞳や、女の子ほどに長い睫毛、どこか病的な印象を思わせる白い肌を、自分の脳内の引き出しを開けて探しました。すると、「ちーちゃん」と呼んでいた、儚げに笑う少年を思い出したのです。


「ちーちゃん?」


 今度はこちらが恐る恐る声を発すると、彼はにっこりと笑って、


「そうだよ、りょうくん」


と、僕の昔の呼び名を口にしたのです。


 ちーちゃんこと、知山むつみは、小学生の頃まで近所に住んでいた同い年の男で、小学四年生の時に親の転勤で遠方へ引っ越してしまいました。女の子に間違われるような容姿のせいで、いじめに遭いやすく、当時、友達は僕くらいのものでした。


「懐かしいな、何年ぶりだろう」

「小四の時以来だから、十年くらい前だね」


変わっていないね、と微笑んだ彼も相変わらず、否、以前にも増して美しかったです。


 僕ももう少し思い出と感傷に浸りたかったけれど、生憎、次の講義が控えていた為、手早く連絡先だけ交換して別れました。





 その日以来、僕とちーちゃんは頻繁に連絡を取り合い、遊ぶようになりました。


 しかし、流石に二十歳を超えた二人の成人男性が、ちーちゃん、りょうくんでは薄気味悪いので、僕は彼を知山と呼ぶようにしていましたが、彼はそれを寂しがって、


「じゃあ、皆の前では僕も中田って呼ぶから、二人きりの時はちーちゃん、りょうくんで呼び合おうよ」


と言われ、僕もそれを了承しました。


 この頃、僕は一回生の夏からお付き合いをしている女性がいました。有島優という同じサークルの子で、少し気が強く、正義感に溢れる一方、繊細でヤキモチ焼きの女の子でした。彼女にも再会した同級生の話をした所、興味を持っているようだったので、僕は三人で会う機会を設けました。

 知山と優は、お互いに気が合ったようで、優はしきりに彼をサークルに誘っていました。彼は少し困った顔をしながらも、


「でも、中田がいるなら、僕も入ろうかな」


と入部を決め、僕も優も嬉しく思っていました。


 彼は二回生からうちの大学に編入してきたそうで、前の大学は有名な難関大学でした。そのことに、サークルメンバー達は皆驚き、口々に勿体無い、何でうちの大学に、と質問していました。その度、彼は


「理由は、まあ、でも、前の大学よりも今の方が良い所だと思うんです。小学校来の友人にも再会できましたし」


と答え、僕は何だか気恥ずかしいような誇らしいような気持ちになりました。


 彼がサークルに入ったことと、秋になり新学期で同じ講義を取るようにしたことで、僕達は益々一緒にいることが多くなりました。


 あまりにいつも一緒なので、優が


「なんだか私よりも知山くんが恋人みたいね」


と拗ねる程でした。僕は勿論そんなつもりもなかったので、そんな優の可愛らしい嫉妬も笑いながらあしらっていました。


 しかし、この頃から僕と優はよく揉めるようになりました。些細なすれ違いに対して、彼女は敏感に反応し、僕を詰りました。その度、僕は知山に愚痴を零し、彼はそんな僕をずっと慰めてくれたのです。





 その日も、僕と優は喧嘩をしてしまいました。理由は、僕が優のことを理解しようとしてくれていないという内容で、僕もそんな優に対して

 

「君だって僕のこと何も理解しようとしないじゃないか」

 

と言い返してしまったのでした。些細なすれ違いから、売り言葉に買い言葉で事が大きくなることが続き、僕も優もうんざりしていたのです。 

 

 落ち込んでいた僕を、彼は自宅に招きました。大学近くに下宿しているらしく、明日は講義もないし、思いっきり酒でも呑んで元気を出そう、と彼が誘ってくれたのです。


「いつも、ありがとう、知山」

「もう、二人の時はちーちゃん、でしょ」


 元気出して、りょうくん、優ちゃんも色々と不安なんだよ、きっと。


 酔いが回り、働かなくなってきた頭で彼の慰めを聞いていると、ふと、教科書の並ぶ本棚に絵本が立ててあるのに気が付きました。


「あれ、絵本?」

「ああ、あれは、『泣いた赤鬼』だよ、覚えてる? 小二の時にさ、りょうくんが」


 その絵本は僕と彼が親しくなるきっかけを作ったものでした。元々彼の私物なのに、いじめっ子がそれを奪い、宿題の読書感想文を書いてきたことが契機でした。

 授業中、誇らしげに感想文を発表するいじめっ子に我慢ならなくなり、その本は知山くんのだ、返せと飛びかかったのです。


 結局、本は取り返したものの、最後の青鬼が去ってしまって赤鬼が泣いているページが破れてしまい、授業中に暴れたといって親と先生にこってり怒られてしまった苦い思い出でした。


「あの時のりょうくん、ほんとに恰好良かったなあ」


 絵本を手に取ってそう呟く彼に、恥ずかしくなって、僕は酔い潰れて眠ったふりをしました。


「あれ、りょうくん、寝ちゃった?」


 少し肩を揺さぶられましたが、本当に眠たくなってきたので、僕はそのまま目を閉じていました。すると、薄れゆく意識の中、耳に何かが触れ、その直後


「もし、りょうくんが赤鬼になったらさ、僕がりょうくんの青鬼になってあげる」


と囁く声が吹き込まれました。その真意もわからぬまま、僕は睡魔に負けて意識を手放しました。





 『泣いた赤鬼』のストーリーは、人間と友達になりたい優しい赤鬼が、親友の青鬼に手伝ってもらって人間と仲良くなる話です。

 しかし、赤鬼が人間と仲良くなれるように、人間を襲い、それを赤鬼が止めるという芝居をした所為で、青鬼は赤鬼の前から姿を消してしまいます。

 そして、青鬼が去ってしまったことで、赤鬼は悲しんで泣く、という最後まで悲しい話でした。


 僕は、眠る前に『泣いた赤鬼』の話をしていたからか、赤鬼が泣いている夢を見ていました。青鬼が去って、背中を丸め泣いている赤鬼を僕が見詰めているのです。


 すると、段々と赤鬼の姿が小さい頃、苛められて泣いていた知山の姿に変わっていきました。僕は知山に近づき、


「大丈夫?」


と尋ねました。その途端、知山を苛めていた同級生たちが現れ、僕と知山に向けて石を投げつけてきたのです。


「やめろよ!」


 そう叫びながら、知山を庇い、石を投げてくる奴らを睨みつけると、その後ろから、ゆらりと白い人影が現れました。そして、忽然と同級生たちは姿を消しました。


 驚いて何も言えず、全身真っ白の服に身を包み、髪も肌も透けるように白い男を凝視していると、彼はゆっくりと俯いていた顔を上げました。


「ち、やま」

「もし」


 いつのまにか小さな知山は消え、真っ白い男は紛うことなく知山の顔をしています。そして、ゆっくりと僕に近づき、


「もし、りょうくんが赤鬼になったらさ、僕がりょうくんの青鬼になってあげる」


と、僕が眠る前に知山が言っていた言葉を口にしました。


 その笑みがあまりに美しくて、僕は恐ろしくなり、そこで飛び起きました。


 全身汗ぐっしょりで、服が纏わりつくのが不快でした。知山はまだ隣で眠っていて、その寝顔は先程の夢の中の白い男と同じ、美しく微笑んでいました。





「なあ、涼。お前、知山に気を付けた方がいいぞ」


 そう言ってきたのは一つ年上の高尾先輩でした。高尾先輩は一回生の頃からずっと良くしてくれていた人で、少し粗野な所もあるけれど優しく、頼りがいのある人でした。


「気を付けろって、どういう意味ですか」

「わかんないけど、あいつ、優ちゃんと二人でいるところ結構見るからさ。もしかしたら、ってことだよ」


 高尾先輩はあまり知山と反りが合わないようで、何かと僕を心配してくれていました。


「まあ、なんかあっても俺はお前の味方だよ、涼」


 そう言って先輩が僕の背中を大きく叩いて去った後、すぐに知山がやってきました。


「今、何の話してたの? 僕のこと?」

「いや、まあ、うん」


 内容が内容だったので言葉を濁せば、知山は、ふうん、と目を細め、特に何も追究することなくその日は過ごしました。


 その翌日、高尾先輩が他大学の学生と喧嘩をしたと、サークルで緊急会議を開くことになったのです。


 先輩が直接喧嘩を吹っかけたわけではありませんでしたが、揉めて相手が殴り掛かってきたのに応戦してしまい、相手が怪我をしてしまったということでした。


「相手の方はこれから、うちの大学に正式に報告するつもりだと言ってきています。このままじゃうちのサークル活動ができなくなりますよ、どうするんですか!」


 先輩を糾弾したり、これからの活動存続を心配したり、皆思い思いのことを発言して、会議は殆ど成立していませんでした。そんな中、知山が静かな声で先輩に


「その相手はどこの大学の人なんですか」


と言い放ったのです。


 全員が口を閉ざし、二人のやり取りを見守っていました。先輩が口に出した大学名は、以前知山が通っていた大学だったのです。知山は依然、静かに、そうですか、と言って立ち上がりました。


「知山?」

「その人なら、直接知り合いではないけれど、前の大学の友人と繋がりがあるかもしれないから、どうにか大学に報告するのだけは勘弁してもらえるように頼んでみるよ。上手くいくかどうかはわからないけど」


 先輩は項垂れたまま、知山に、頼む、と呟きました。知山は冷たい声で、


「僕はこのサークルの為に自分ができることをするまでです。先輩も、ご自分のできることを考えて下さい。そうでないと、頑張っている皆に失礼です」


 そう言って知山は部屋を後にし、見事サークル活動を存続できるように話をつけてきました。


 その結果、益々皆の知山への信頼は、もはや妄信と言って良い程、傾倒していました。そして、高尾先輩は居辛くなり、サークルを辞めてしまいました。


 これで、知山のことを悪く言う人は、サークル内ではいなくなったのです。





 二回生もそろそろ終わりに差し掛かり、サークルでは僕達新三回生の中の一人が部長を務めなければならないので、皆で話し合いの場を設けました。


 皆、実力も勿論あり、そして先日の一件もあった為、知山を推薦していました。僕もそれには賛成で、やってみたらと言ったら、彼は


「でも、僕二回生から入部したし、やっぱり自信がないよ」


と、僕を泣きそうな目で見詰めてきました。


 そんなに嫌ならば、と僕は皆に彼を推薦するのはよせと嗜めました。すると、真っ先に優が、


「どうしてそんなことを言うの、涼が手伝ってあげればいいじゃない」


と少し怒りながら言うのです。僕は彼女の態度が理解できませんでした。困惑する僕を余所に、彼女は


「大丈夫よ、知山くん、私たち皆でサポートするし。何なら涼を副部長にしたら良いよ」


と勝手に話を進め、他の部員もそれに賛同していました。僕と知山は置いてけぼりでしたが、それでいいかと尋ねられた彼はまた


「中田が一緒なら」


と困った笑顔を浮かべていました。





 優とはなんとか仲直りをしましたが、更にぎくしゃくするようになっていました。三回生になると忙しくなる為、学部の違う優とはあまり頻繁に会えなくなったことが原因だと思っていたのです。


 僕は資格を取る為に実習が多く、同じ学部の知山よりサークルに行けませんでした。彼女はそのことに憤慨し、名ばかりの副部長の僕の代わりに彼を支えていたそうです。


 知山に手伝えないことを謝ると、少し寂しそうに、


「はやく、実習が終わってほしいよ、中田がいないとサークルにも張り合いないし。待ってるから、実習頑張ってね」


と言って微笑んでいました。


 僕は実習のことで優や、サークルの同回生に詰られてばかりいたので、「頑張って」と言われたことが嬉しくて仕方ありませんでした。同時に寂しそうに微笑む知山を愛おしいと思うようになったのです。





 漸く実習が終わり、久々にサークルに顔を出した時です。怖い顔をした優に、サークルが終わってから話があると言われました。


 僕は憂鬱な気持ちで呼び出された場所に向かうと、優と同回生が待っていました。


「話って何?」

「何、じゃないよ、涼。あなた知山くんに悪いと思ってないの」


 腕組みをしてこちらを睨みながら、彼女は低く呟きました。


僕はうんざりしながらも、サークルに行けなかったのは実習があったからだということ、しかもそれは前々から言っていたことを、できる限り彼女を刺激しないように弁解しました。


 しかし、彼女はまったく納得いっていないようで、ヒステリックに僕を責め立ててくるのです。

 流石に僕も苛立ち、少し大きな声で、


「じゃあどうしたら納得するんだよ!」


と叫びました。すると彼女は、


「明日のサークル活動始める前に、皆の前で知山くんに謝りなさいよ」


と蔑んだ目で、吐き捨てるように言ったのです。何故、そして何を謝らないといけないのか僕は納得いきませんでした。けれど、彼女の後ろにいる同回生達もそれに同調し、口汚く罵ってくるのに耐えきれず、謝罪することを受け入れました。


 そうして漸く解放された僕は、とぼとぼと独り帰りました。そこに知山から電話がかかってきたのです。


 彼は優から明日の謝罪の件を聞き、僕を心配して電話をかけてきたようでした。僕はとりあえずそれで皆の気が済むなら従うという意志を伝えると、彼は


「大丈夫、りょうくん、心配しないで。言ったでしょう、僕がちゃんと、青鬼になってあげるからね」


と言って、電話を切りました。





 翌日、僕は重たい足取りでサークル活動場所に向かいました。すると、扉を開ける前から中が騒がしいのです。驚いて扉を開けると、同回生の一人を知山が殴りつけているではありませんか。


 僕は慌てて知山に駆け寄り、止めました。けれど、彼は暴れて僕を振り切り、今度は後輩に殴りかかってゆくのです。皆それを呆然と見詰めていました。


 僕は混乱する頭で考えました。彼が暴れている理由について、思い至ったのが昨日の彼の台詞です。


『――僕がちゃんと、青鬼になってあげるからね』


 きっと、彼は『泣いた赤鬼』の青鬼のことを言っていたのでしょう。赤鬼の為に暴れる演技をして、赤鬼と人間が仲良くなる契機を作った青鬼。彼は僕の為にきっと、暴れているに違いありませんでした。


 彼の真意がわかったとして、僕はどうしたら良いかわかりません。『泣いた赤鬼』のストーリーに乗っかるなら、僕が知山を殴ってでも止めれば良いのでしょう。しかし、僕には知山を殴るなんてこと、できないのです。


 それを汲み取ったのか、彼は襲いかかる相手を優にしようと、彼女に向かっていきました。それは流石に止めなければと、僕は戸惑いながらも、やめろと叫んで彼の頬を加減しながら殴りました。

 思った通り、殆ど力も入っていなかったのに、彼は倒れ込み、そしてその場から無言で立ち去ったのです。


「優、大丈夫か」

「……最低」


 彼女は悲しそうにそう言って、俯きました。僕は何とか知山のフォローをしなければ、と口を開こうとした時でした。

 顔を上げた彼女の右手が、僕の頬を打ったのは。


「最低よ! どうしてあなたは自分のことしか考えられないの! 知山くんはね、できないあなたを最後まで庇ってたのに!」


 彼女の言い分はこうでした。


 知山はずっと一人で頑張ってきたし、仕事も完璧、しかも愚痴一つ言わず熟してきた。辛い時もそんな素振りを見せず、僕を責める輩を嗜め、その分自分が頑張るからと頭を下げたこともあった。


 自分のことも親友の彼女ということで心配し、親身になって話を聞いてくれたし、僕が忙しい間は知山を代わりに頼ったら良いと言ってくれた。その前から、僕に対する不満を解消してくれていた。今の騒動だって僕に対して怒っている奴が、僕を罵っているのを、知山がいい加減にしろと言って注意したのがきっかけだったこと。


 このような内容を早口で捲くし立て、最後に


「もう、あなたなんかとっくに好きじゃない。さよなら」


と吐き捨てて、彼女はサークルメンバーとともに活動場所を後にしました。取り残された僕はひとりぼっちで、その場を動けませんでした。





 思えば、優と揉めるようになったのは、優を知山に会わせてからでした。僕の至らない部分を詰っていたのは、知山と比べていたのでしょう。憶測にしか過ぎませんが、知山が不満を抱くように優を誘導していたのかもしれません。

 何にせよ、彼女と関係を修復するのはもはや不可能です。おまけに、サークルにももう僕の居場所なんてありません。


 何が青鬼なのか、これでは真逆じゃないかと、知山に対して怒りが沸々と湧いてきた時でした。


「りょうくん」


 静かな空間に響いたのは、優しくて冷たい声色でした。扉の前には薄く微笑む知山が立っていました。


「知山、お前、なんで」

「知山、じゃなくて、ちーちゃんでしょ」


 依然、笑みを崩さず近づいてくる彼に、僕は言い表せない恐怖を感じ、後ずさりました。


「お前、僕のこと、いや、それより青鬼って、一体」

「『泣いた赤鬼』の赤鬼ってね、人間と仲良くなった後に青鬼が消えてから、泣いて泣いて後悔するんだ。優しい赤鬼のことを、わかりもしない下らない人間と暮らすことが幸せなのかな。泣く程後悔する結果が、本当に赤鬼の幸せなのかな。

 僕はそう思えない。赤鬼は、ずっと青鬼と仲良く暮らせば良かったんだと、僕は思うんだ。ねぇ、りょうくん。赤鬼には人間なんかいらないんだよ、青鬼さえ、僕さえいれば十分なんだよ」


 知山の指が頬に触れ、背中には壁が触れ、自分が追い詰められていることを実感させられました。彼は、未だ笑みを崩しません。僕は声も出せずに知山を見詰めます。


「僕にはりょうくんしかいない、りょうくんしかいらないんだ。りょうくんと離れ離れになってから、また虐められて、中には僕のことが好きだとかいう奴もいて、無理矢理襲われたこともあったよ。でも、ずっとずっと、りょうくんのことが好きだった、りょうくんのことだけ好きだった」


 知山は確かに笑っている筈なのに、何故か泣いているようにも見えました。もう鼻先が掠るくらい近づいた距離に、僕は呼吸の仕方も忘れたように、息苦しくなったのです。


「ねぇ、りょうくん、嫌だったら突き飛ばして。僕よりも他の人が大事だっていうなら、僕は皆の誤解を解いて、りょうくんの前から立ち去るから。でも、僕を選んでくれるなら、目を閉じて」


 彼の白くて細い指が頬から僕の唇に移りました。どうしてか、僕は彼の好意に怒りを忘れて、恐れを感じていました。それは同時に、悦びでもありました。僕は操られたように、自分の意志に反して目を閉じてしまいました。

 こうして、僕は知山以外のものをたくさん失くし、これから更に多くのものを捨てていくのでしょう。




 そして、再び瞼を上げた時。眼の前に立っていたのは青鬼ではなく、惨めな僕を慈しみ嗤う、美しい白鬼だったのです。


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