「美郷さん」
「女は息をするように、嘘を吐く生き物なのよ」
そう僕、
何故なら、必ずその後に
「だから簡単に女を信用しては駄目よ」
と付け加えて、僕に女性を信じられない呪いをかけていたのだから。
美郷さんは僕を産んだ人、つまり世間一般では母親ということになる。しかし、彼女は僕に自分のことを決して「お母さん」や「ママ」と呼ばせなかった。
僕は彼女を「美郷さん」と呼び、そのことを友達におかしいと言われ、どうして美郷さんと呼ばせるのかと問うた小学校三年生の僕に
「私は美郷という名前があるのよ。あなただって基緒じゃなくて、息子って呼ばれたくないでしょ?」
と答えるような人だった。
彼女はいつまでも「母親」ではなく「女の人」で有り続けられる人だったのだ。良い見方をすれば、いつまでも美しく、所帯じみた惨めさがない、そんな人。悪い見方をすれば、世間一般の「お母さん」が与えてくれるものを、何一つくれない人だ。
僕が納得できるような、できないような、したくないような。そんなマイルールを大切にする美郷さんは、独特な教育方針に基づき、女手一つで一人息子を欧米人のごとくフェミニストに育て上げた。そして同時に、女性不信にも仕立て上げたのだった。
その教育の恩恵で僕は頗るモテた。そして、その一方で、頗る振られた。女の子から僕に告白してきても、僕から別れを切り出すことはなく、愛想を尽かして振るのも必ず女の子の方だったのだ。振られる理由は大体同じで、
「あなたは私のこと、何一つ信用してない」
まったくもってその通り、申し訳ないが僕は「女の子」というカテゴリーの生き物を信用できない呪いをかけられているのだ。
その所為で、こちらが知らず知らずのうちに女の子を傷つけてしまっていたようで、中には
「私のこと何も見てくれてない」
と泣いた子もいたっけ。
あれは大変心が痛んだ。女の子を泣かせるなんて、フェミニストの名が泣くが、なにせ、息をするように嘘を吐くと刷り込まれているのだから。そこは容赦して頂きたい。
自分でも大変拗らせてしまっているとは思うし、できることなら女性を信用したい。好きな女の子を心から信じて大切にしたい。
しかし、残念ながらその呪いをかけた美郷さんはもうこの世にはいない。僕を女性不信にして、その呪いも解かず、交通事故で突然、一人旅立ってしまったのだ。あんまりな仕打ちに、僕は笑ってしまった。
「だから基緒には、私が、私だけがいたら、大丈夫だからね」
と言っていた癖に、やっぱり女は嘘吐きな生き物なのだ。それを、美郷さんは、身をもって証明したのかもしれない。
母子家庭の母をなくし、途方に暮れる僕の前に現れたのは、美郷さんの元夫、つまり僕の実父だった。
「今まで顔も見たことなかったのに、一緒に住もうなんて、お前も気持ちの整理がつかないかもしれない。けど、美郷にも俺にももう親はいないし、親戚もいない。お前と血縁関係にあるのは俺だけなんだ。流石に血の繋がりがある俺がいるのに施設に預けるなんてしたくない。お前さえ良ければ、これからは一緒に暮らさないか」
「それって、僕には選択肢がいくつかあるようで、一つしかないよね」
そう言って、美郷さんの葬儀で初めましてだった、僕に少し顔の似た父親に「よろしく、父さん」と頭を下げた。複雑そうな顔で父も「ああ」とだけ言った。
引き取られた先には、知らない女がいた。なんとなくだが、少し美郷さんに雰囲気が似ている気がする女性だった。
「
「ありがとう、理実さん。でもごめんなさい、僕、美郷さん、いえ、実の母親からずっと『お母さん』じゃなくてきちんと名前で呼べって言われて育ってきたので、『お母さん』ていうのがどうもしっくりこなくて。不快でなければ理実さんて呼んでもいいですか」
力なく笑ってそう言えば、理実さんは一瞬面食らった後、憐みを隠しもしない様子で、
「不快だなんて思うわけないわ、基緒くん。これからは美郷さんの変わりに私があなたを愛してあげるからね」
と言って、僕を力いっぱい抱き締めてきた。
父親は「あいつらしいな」と苦笑し、抱き締められている僕の頭をポンと撫でた。
僕は誰にもわからないようにこっそりほくそ笑んだ。正直、この父親にもその妻にも、何の恨みもなければ興味すら微塵もなかった。
どうして美郷さんと別れたのか、何故今まで一度も会わなかったのか。そんなことすら聞く気にもならなかった。
ただ、一度として美郷さんから父親について悪く言われたこともなかったので、恐らく悪い人ではないのだろう。こうして会ったこともない息子を引き取ってくれるのだ。むしろ良い人なのかもしれない。それに、もし仮に父親の浮気で別れたのなら、美郷さんがそれを言わないわけがない。それこそ、呪詛のように僕に父親への罵詈雑言を言い続けたに違いない。
自分の敵でない人にわざわざ敵意を向けるのも馬鹿馬鹿しいと、実父とその奥さんと暮らし始めて早三か月。この夫婦には子供がおらず、理実さんから血の隔たりで疎まれることもなく、自分なりに「家族」を楽しんでいたのだ。
しかし、心の奥底でむずむずとくすぶっている不満というか、違和感というか、よくわからない感情を持て余していた。家にいても学校に行っても、どこか虚しいし、落ち着かない。実母を亡くしたのだから、当たり前といえばそうなのかもしれないが、なんとなく寂しいとか悲しいとかではない気がした。
その所為なのかわからないが、最近、変な夢を見るようになった。
「かなこちゃん、ごめん、俺また知らないうちに君のこと傷つけてたのかな」
「ほら、そうやって基緒くんは私のこと何も見てくれてないのよ! 理由もわかってない癖に謝らないでよ!」
夢に見るのは歴代の彼女達との別れ際で、記憶力がいい方ではないので、一言一句そのまま再現されているかはわからないが、大体は実際に起きた出来事をリプレイしているようだった。
ただ一つ、決定的に違うのは、別れを切り出してくる彼女の隣に、美郷さんが立っていることだった。
別れ話をしている自分と彼女と、その側に立っているだけの美郷さん。まったくもって意味がわからない夢だ。勿論、自分の別れ話に美郷さんが遭遇したことは一度もない。
最初にこの夢を見た時は美郷さんのことが恋しいのかなと思っていたが、だとしてもこのシチュエーションはあまりにもおかしい。恋しいならば、美郷さんとの思い出を夢に見るのではないか。ましてや、夢の中の美郷さんはぼうっと立っているだけで、別れ話に交じることもないし、変な言い方だが、別れ話をしている自分と彼女にも美郷さんは見えていないようだった。まるで幽霊のように。
今朝は六番目の彼女、かなこちゃんとの別れを夢に見て、最悪の寝覚めのまま、朝食を取りにリビングに向かった。日曜日なのでまだ父親は起きていなかったが、理実さんはすでに起きており、「おはよう」と声をかけられ、こちらも挨拶し返した。彼女は僕の顔を見るなり自分の目の下を指さしながら、
「最近どうしたの、なんだかとても疲れてない? 隈も酷いじゃない」
「なんか、夜眠っても眠った気にならなくて、ここのところずっと眠たいようなだるいような感じなんだよね」
理実さんが眠気覚ましにいれてくれたブラックコーヒーを受け取る。
そう言えば、美郷さんは朝、眠そうな僕に「眠気覚ましは炭酸よ」ってお酒割る用のソーダ水をよく渡してきたっけ。甘くない、無味無臭のやつ。
コーヒーだけ飲んで、
「せっかくの休みだし、気晴らしに外をぶらついて来るね」
と理実さんに告げ、行く宛もなく家を出た。父親は元々、美郷さんと住んでいた場所から比較的近くに住んでおり、高校も転校する必要はなかった。そうすると、一度も会ったことがなかったのが不思議なくらいだ。
「基緒くんじゃない?」
以前はまったく浮かばなかった疑問に思いを巡らしていると、ふと声を掛けられた。
「かなこちゃん?」
「うん、やっぱり基緒くんだ。変わってないね」
そう言って笑うかなこちゃんは、今朝、泣きながら僕に怒っていた時より、大人っぽくはなっていたが、面影はしっかり残っていた。
夢に見たばかりの元恋人に遭遇し、偶然もあるもんだなあと不思議な気持ちになった。
中三の時に付き合っていたかなこちゃん。喧嘩別れのような形だったし、高校も別々だったので今までまったく会わなかったが、こっちの方の高校に通っていて、部活の帰りだったらしい。
「懐かしいな、良かったらもうちょっとゆっくり喋らない?」
と誘えば、あっさりと「いいよ」と言ってもらえた。近くのファーストフード店に入り、お互いの近況を語り合っていたが、僕は彼女にどうしても聞きたいことがあった。
「ねえ、かなこちゃん。今更こんなこと聞くのは失礼なのはわかってるんだけど、僕のどんな所が嫌になって別れたの?」
今朝夢に見た光景がフラッシュバックする。
『そうやって基緒くんは私のこと何も見てくれてないのよ!』
自分は割と気がつく方だし、「髪切ったね」とか「新しいネイル可愛いね」とか、わずかな変化もお世辞にならないよう気をつけて褒めるようにしていた。「信用してない」という烙印は甘んじて受け入れるが、彼女の「彼女を見ていない」という言い分だけは、どこか納得できていなかったのだ。
「……基緒くんだけが駄目だったわけじゃないの、私も子供だったのよ」
ぽつりぽつりと彼女は語り出した。やっぱり、あの頃より彼女は大人びた表情になったと思う。
どこか、美郷さんを思い出させるような。
「付き合い始めて、基緒くんって、人のこと信用してないっていうか、特に女の子には優しいけど、実は冷たいなって」
「はは、かなこちゃんにもやっぱりそう思われてたんだ」
「でも付き合っていくうちに気がついたの。信用してないというより、そもそも私のこと、いつも基緒くんの中にある女の子像と比べながら見てるんだって」
途中まではいつも通りの訴えに、がっかりしていたが聞き慣れない言葉に、へ、なんて間抜けな声しかでなかった。
「なんていうか、女の子とはこうあるべき、みたいな理想像っていうのかな。それが基緒くんの中にあって、それといちいち比べられてる気がして。女って他の女と比べられるの嫌だから、そういうの敏感なんだよ」
それが実在する元カノなのか、映画の登場人物みたいな空想なのか、私にもわかんなかったんだけどさ。
そう言って彼女は笑って、
「そろそろ行くね」
と席を立った。僕は呆然とその姿を見詰めることしかできなかった。背中にじっとりと汗が滲んでいて、不愉快にシャツが肌に張り付いている。
かなこちゃんの話は、僕のむずむずした感情に明確な形を与えた。それは、恐怖だった。
無論、彼女のいう理想像は元カノでも、映画の登場人物でもない、「美郷さん」だ。空想ではない、僕に一番近い女の人。唯一、僕が信用できた女性だ。
僕は今まで、ありとあらゆる場面を美郷さんと過ごしてきた。その所為で、生活のどこもかしこも、特に女の子について、美郷さんの影がちらついていたのだ。
今までは確かに美郷さんは存在していたから、その影も気にならなかった。なぜなら、影だけでなく、ちゃんと本体がいてくれたからだ。
けれど、今は違う。
美郷さんはもういない。いないのに、僕の思い出が、脳内が、勝手に美郷さんを作り出す。それも、ありとあらゆる場面でだ。本体をなくした影だけが、僕の頭にこびりついている。
あの夢は昔の状況を、今の僕が見ているのだ。どこにでも、美郷さんの影が立っている状況を。僕はそれがとても恐ろしく思えた。
「僕はいつまで、美郷さんの影を見続けるんだろう」
美郷さん、僕はこの世にいない筈のあなたの存在を感じる度、恐ろしい気持ちになります。
帰路につく頃、すっかり夕暮れのオレンジ色に染まる世界の中で、不安な気持ちで一人歩いていた。夕方は、太陽の位置の関係で、影が長く伸びている。自分の身長と比べて何倍も長い影は、少し遠くに頭の部分が確認できる。
自分の前に伸びる自分の形をした影を見て、実体があるものに光を当てれば影ができるという、当たり前のことについて考えてしまう。実体のないものには当然、影なんかできない。つまり、今、僕に実体はある。そして、自分の影の横に伸びている、細長い電柱らしき形の影は、後ろに何か実体のあるものがあって、その影の先が目に入っているだけなのだ。
くるりと後ろを振り向くと、電柱が立っていて、その影が僕の影の隣へと伸びていた。
実体が視界になくて、影だけが目に入る状況は、少し怖い気がする。何か正体がはっきりわからないものが、近くにいるということだけ、わかるのだ。
例えば、今、電柱の影だろうと思って振り向いた先に、思った通り電柱があったから僕は安心した。でも、そこに電柱がなかったら? 僕は一体、何を視ているんだろうと、怖くなるだろう。これは、何の影なんだろうと。そんな風に考えだしたら、怖くて恐くて仕方なくなった。
ふと、僕の影の隣に、誰のものかわからない人影が並んだ。後ろに、誰かいるのだ。振り向く勇気がなかった僕はその場から駆け出した。
振り向いて誰かいても、いなくても、怖かった。振り向いて、死んだ美郷さんの亡霊が立っていても、立っていなくても、怖かったのだ。立っていなくても怖いのは、やっぱり美郷さんに二度と会えないんだと、辛い現実を突きつけられるからだ。それくらい、僕にとって美郷さんは、大きな存在にさせられていたのだ。
家に帰ると、父親も起きたのかテレビを観ていて、理実さんの姿がない。所在を尋ねたら買い物に行ったとのことだった。
「お前、どうしたんだ? 顔真っ青だぞ」
「ああ、うん……それよりさ、父さんってどうして美郷さんと別れたの? 美郷さんが浮気した? それとも父さんの方?」
いきなりなんだ、と訝しげな父親に、いいからと語気を強めれば、僕の尋常でない様子に戸惑いながら、
「何かあったのか?」
と心配げな声をだした。
僕が恐ろしくなったのは、美郷さんの僕への執着心だった。僕に他の女を寄せ付けないようにするのではなく、自分以外の女を信用させないやり口が、比喩でなく本物の呪いのように思えた。
だから、美郷さんの僕への執着に理由を付けたかった。僕に執着する理由がわかれば、僕へ注がれる盲愛の正体を確認できれば、少しは安心できる気がしたのだ。
「別に、知りたくなったんだ。いいだろ、僕にはそれを知る権利がある筈だ」
「わかった。そこまで言うなら、教えてやる……と言っても俺も正直、本当の理由がなんなのかわからないんだけどな」
父は話しだした。
美郷さんとの出会いと、結婚に至るまでの話を。それは初めて聞く話だった。思えば、美郷さんは過去の自分の話を一切教えてはくれなかった。
そして今更ながら、過去を知らないことに不満や不安を抱かないように、美郷さんに育てられていたのだとも気がついた。
「結婚生活も、正直上手くいってたと思うんだ、そりゃ喧嘩もしたけどさ。お前が美郷の腹の中にいるってわかった時も、二人でたいそう喜んでな」
そう今まで穏やかに語っていた父が、「でもな」と暗い声に変わった。
「だんだんと美郷の腹が膨らんでいくに連れて、なんだか態度がおかしくなっていってな。こう、よそよそしくなってきたっていうか」
僕は息を呑んだ。恐らく、この辺りから、僕の知りたかった本題になるのだろう。
「初めはマタニティブルーってやつかなと思って気にしないようにしてたんだ。そうしたら、ある日突然、美郷が離婚してほしいって言い出してな。勿論、身に覚えもないし、何か不満があるなら教えてくれって言っても、何もないって言うんだよ」
当然、その間に父親は浮気もしていないし、何なら酒も煙草も止めて、家事も仕事の傍ら手伝っていたらしい。よくある嫁姑問題も、父親の両親はすでに他界していたし、それどころか美郷さんの両親も美郷さんが成人して間もなく亡くなっていたそうだから、誰かに何か言われた線もなさそうだった。
「そうなると、自分の身に覚えがない俺には、美郷の浮気を疑うしかなかったんだ」
「美郷さんは浮気してたの?」
「結論から言えば、俺は美郷の浮気を突き止めることはできなかった。美郷の友達に聞いても、知らないとか、わからないって言われるだけで、こっそり探偵に依頼もしてみたが成果はなくてな。最後の手段として、お前のDNA鑑定をしようって提案してみたんだよ」
「結果は?」
「お前は紛れもなく俺と美郷の子だった。それがわかった美郷は嬉しそうに言ったんだよ『この子はやっぱり、間違いなく私の唯一の存在なのね』って」
それから益々、美郷さんは離婚したいと言い張るようになって、父さんはそんな美郷さんがわからなくなって、結局理由はわからないまま離婚に至ったらしい。
「離婚届を出して、美郷が出て行く時、最後に言ったんだ『あなたのことをもう一番に愛せないの、あなただけには嘘を吐きたくなかったの』ってな」
それから暫く、父は女性不信になったそうだ。当たり前だ、突然愛する妻から理由もわからぬまま、別れを告げられて、「一番に愛せなくなった」と言われたのだから。
「もう二度と結婚なんてするかと思ってたんだけどな、そんな時に理実に出会ったんだ」
女性不信になってしまった父に対して、誰もが憐憫と同情の目を向ける中、理実さんだけが、美郷さんの気持ちがわかると言ったそうだ。
「理実が言うにはな、美郷の一番は確かにずっと俺だけで、誰か他の男と浮気してたり、好きになったりして別れたわけじゃなくて、一番だった俺と自分自身の血が混じったお前が一番になっちまったんじゃないかって。
親も亡くなった美郷にとって、お前だけが唯一の血縁者なんだ。俺はどう足掻いたって美郷との血の繋がりはないからな。ただ、妙に納得がいってな、ああ、だから唯一の存在だって言ったのかって。基緒だけを、一番に愛していこうと、美郷は決めてしまったんだろうな。
ま、全部理実が俺の話を聞いて考えたことに過ぎないし、それが本当かどうかは美郷がいなくなった以上、もうわからないけどな、俺は確かにその言葉に救われたんだ」
滔々と語る父は晴れやかな顔でそう言ったが、僕の血の気は引いたままだった。
美郷さんは何か大切な人や物を失ったから僕に執着したわけじゃなく、僕への執着から他のものを捨てたのだ。
「おい、基緒? どうしたんだ、どこに行くんだ基緒!」
父親の制止を振り切って僕は部屋から飛び出し、玄関まで転びながら走った。この場からとにかく逃げ出したかったのだ。
美郷さんに振り回されながら、結局美郷さんの思想がわかると言った理実さんに惹かれた父。
美郷さんの異常な執着に対して、本人から聞いたわけでもないのに理解を示した理実さん。
美郷さんのような、大人の表情を見せるようになったかなこちゃん。
僕の周りに美郷さんの影が、いや、美郷さんの亡霊が纏わりついているようで、気がおかしくなりそうだった。
焦りながらスニーカーを履き、もつれる足取りで玄関の扉を開けようと立ち上がった時、手をかける前の扉がゆっくり開いた。
「あら、基緒くん、そんなに慌ててどこに行くの?」
「ひっ」
扉を開いたのは買い物から帰って来た理実さんだった。何もわからないという顔で
「どうかしたの?」
と僕に向ける、その微笑みたるや。
「美郷さん」
思わず漏れた呟きとともに、へなへなと座り込んだ僕を見下ろす彼女の後ろには、僕にしか見えない美郷さんの亡霊が立っていて、理実さんと同じように微笑んでいた。
美郷さんが纏わりついているのは、僕の周りではなく、きっと僕自身で、この呪いを解く方法もわからない。
微笑み立っていた女が屈んで、僕の首に腕を回して、耳元で言った。
「基緒には、私が、私だけがいたら、大丈夫だからね」
回された腕は、確かに僕に触れていて、けれどそれが、美郷さんなのか、理実さんなのか、美郷さんが憑りついた理実さんなのか、はたまた僕の妄想と幻聴なのか。
僕には、もう、わからなかった。
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