迷い路のオオルリ

白ノ光

迷い路のオオルリ

 道に迷った。

 どうやら道を一つ、間違えて逸れてしまったらしい。

 時間通りに進んでいれば、今頃、山頂に辿り着いているはずなのに。

 スマートフォンの画面に映る時刻は、昼過ぎを指している。

 元の道順に帰ろうか。

 そう思って振り返っても、木々の緑に視界を阻まれて、自分がどちらから来たのかが分からない。

 大きな木の根元にリュックサックを下ろし、中に入っている地図を広げる。

 うーん、やはりよく分からない。

 自分が迷い込んだと思しき道が見つからない。

 そもそも、一本道のはずだった。それがどうしてか、分岐路を見つけ、間違えたのだ。

 ふと気づけば、今まで歩いてきたはずの道は姿を消している。

 もしかしたら、獣道を人の道だと勘違いし、奥まで進んできてしまったのか。

 獣道が途切れ、こうして現在地を見失ったのだろう。

 スマートフォンをいくら弄っても、都会の電波など届いているはずもなく、位置情報は手に入らない。

 遭難は嫌だな。

 山を登ることに決めた。こういうときは、上を目指した方がいい。

 下手に下山しようとすると、ますます位置が分からなくなる。山の頂上は、常にひとつだ。頂上にさえ到着すれば、正規の道で帰れる。

 ペットボトルの水を軽く、唇が濡れる程度に含むと、リュックサックを背負いなおした。

 歩くか。

 黙々と、現在地も分からぬままに歩く。

 鳥の鳴き声が聞こえる。

 何かが草をかき分けて走っていった音がする。

 熊か何かだったらどうしようか。

 人が踏み入らぬ場所、山の深くは、獣の領域だ。

 熊に襲われれば、何もできずに死んでしまうかもしれない。

 それ以前に、山頂に辿り着けなければ、完全に遭難して飢え死ぬということもあり得る。

 自分はここで死んでしまうのか?

 ──それならそれでもいいか。

 心のどこかで、冷たく俯瞰する自分が呟いた。

 生きることに飽きた暗い思考が、今日も脳に浸っていく。

 道なき道、ひたすらに茶色い土を踏んでいくと、人がいた。

 若い女性だ。日よけ帽をかぶっている。

 自分と同じくリュックサックを背負っていることから、同じく道に迷った登山者かと推測する。

 しかし奇妙なのは、季節に対して厚い生地の恰好をしていることか。

 「こんにちは」

 彼女に近づいていくと、向こうもこちらに気付いたようだ。

 先に声を掛けてみる。

 彼女は満面の笑みを浮かべ、

 「こんにちは!」

 青い空にまで突き抜ける、麗らかな声だった。

 「こんなところで人と会うとは、思いませんでした」

 「私も! ここで出会った人は、あなたが初めて」

 「どうも道に迷ったみたいです。正しい道、知ってますか?」

 「いいよ。ついてきて」

 そう言い彼女は歩き出した。

 ちゃりちゃり。

 彼女のリュックサックには、カラビナに小さなマスコットが付いていて、それが歩く度に揺れている。

 ファンシーな水色をした、羽を畳んだ鳥のアクセサリーだ。

 「ありがとうございます。もうどこへ行けばいいのか分からなくて、このまま迷い続けるのかと怖くて」

 「山って、一瞬で道を見失うからねー。怖いよね。私もその気持ち、分かるよ」

 お姉さんは気さくだ。

 虫や鳥の、内容不明な会話しか聞こえないこの山の中で、誰かと知ってる言葉を交わせるというのは、想像以上に安心できる。

 「あなた、山好きなの?」

 「山自体は……そんなに好きじゃないです」

 「あれ、そうなんだ。じゃあどうしてここに?」

 「人の多い都会から離れたくて。静かなところに行きたいと思う度に、山に来ます。この辺の山は人がいてもまばらで、登ることだけ考えてればいいので、落ち着くんです」

 「そっか。心が穏やかになるもんね、山は」

 日々を考え込んでしまうのが、自分の悪いクセだった。

 生きるために勉強を、仕事をして、苦しんで。

 こんなことをして、将来何になるのだろう。世界がどう変わるというのだろう。この苦しみに意味なんてあるのだろうか。

 世界に自分がひとりいなくても、何も変わりはしない。自分の代わりなんていくらでもいる世の中だ。

 そのうちに、自分の人生は結局のところ無意味なのではないか、そんな思考が頭をよぎるようになって。

 「都会は、生きにくくて嫌いです。人付き合いとかしたくないのに、誰かと関わらずには生きていけない」

 「うんうん。何ていうか、こう、息がしにくいんだよね。私はただ、自分一人で生きていたいんだーって気持ち、分かるとも。その点、山は自由だ! 都会の狭さから解放されて、空が広く見える!」

 「お姉さんは山が好きなんですね」

 「まあね。何があっても、山は好きだ」

 「……でも自分はやっぱり、山も嫌いです。歩いて疲れますし、汗は気持ち悪いし、翌日、筋肉痛が酷いです」

 「あはは。汗が臭いんだよねー自分のなのに。私は電車使って日帰り登山が習慣だったけど、帰りの電車、自分の体臭気にして席座りにくくてさ」

 何でこんなことを話してるんだろう。

 見ず知らずの相手なのに、お姉さんは話しやすい。

 いや、見ず知らずだからこそ、話せることもあるのかもしれない。

 この日この時だけの出会いなんて、人間はすぐ忘れてしまうのだから。

 お姉さんは足が速い。

 すいすいと上り坂を歩き、時折、木々の間から聞こえる鳥の囀りに耳を傾けているようだ。

 「はぁ、はぁ……。すいません、休憩を……」

 「ん? ああ、飛ばし過ぎたかな? ごめんね、休憩していいよ」

 木陰に入り、樹皮に手をついて呼吸を整える。

 水分を補給した後、タオルで汗を拭う。自分のその様子を、お姉さんは見ていた。

 驚くべきことに、お姉さんは汗をかいていない。

 それどころか、あの速度の登りで息ひとつ切らしていないらしく、余裕の笑顔だ。

 相当に登山慣れしているようだが、それでも、汗をかいていないというのはどういうことだろう。

 「あの」

 「どした?」

 「道って、本当にこっちで合ってますか? もうすぐ日が落ちそうなんですけど」

 「合ってるよ。まあ私についてきなって」

 お姉さんは不思議だ。

 地図を一瞥もせず、自信に満ちた足取りで、既に暗くなりかけた山を歩いている。

 地平線に沈む太陽に向かって、どこからか、かん高い鳥の歌が捧げられた。

 「見て、クロツグミ」

 「え?」

 「ほらほら、あの木の枝の上。もっと上、そう、そこ。黄色い嘴のやつ」

 お姉さんの指差した直線状に、小鳥が一羽、歌っていた。

 小さな黒い身体に、黄色い嘴。

 この暗がりから、あの小鳥を、歌声だけで見つけ出したのだろうか。

 「もうそんな季節か……」

 お姉さんは呟いた。

 その声にはどこか、悲しみを感じる気がする。

 「鳥、好きなんですか?」

 「うん。私はね、鳥の歌を聴きに山に登ってたんだ。野鳥は種類豊富で、それぞれが違う声で歌う、個性豊かな連中なんだよ」

 「へえ。バードウォッチング、っていうやつですね」

 「どちらかと言うと、バードリスニングだね。見た目もいいけど、私は歌の方が好きだから。……なんちゃって!」

 お姉さんは自分で言って、自分で笑った。

 先ほど感じたものはただの勘違いだったか、彼女は楽しそうだ。

 「あの子は暮れていく日を憂いて歌っているんだね。耳が癒されるよ」

 休憩は終わり、自分たちは歩きながら、響き渡る歌声に耳を澄ませる。

 「分かるんですか、あの鳥が何を歌ってるのか。すごいですね」

 「え、分からないけど」

 「ええっ?」

 自信満々に言うもので、お姉さんには鳥の言葉が分かるのかと思ってしまった。

 危うく足元を踏み外して、斜面から滑り落ちてしまうところだ。

 「私にはそう聴こえるってこと。何を言っているか分からないからこそ、自分でその意味を作れるんだよ」

 「意味を、作れる……」

 「そうでしょ? あの鳥が本当はどう思って歌っていようと、その歌を聴く人間にとっては、自分の思ったことこそが歌の意味なんだ。何事も受け取り手次第ってこと」

 「自由なんですね」

 「自由だよ。ここでは何かに縛られて生きる必要はない。鳥も花も、思い思いに歌って咲くんだ」

 「都会にいると忘れそうです。世界がこんなに自由だったなんて」

 「せっかくこの世に生まれたのなら、そう生きたいよね。私は自由に憧れてたんだ。鳥になりたかった、空を駆ける自由の象徴に」

 お姉さんは大人だ。

 その人生哲学は、自分にとって斬新に映る。

 意味がないものには、自分がその意味を付けてしまえばいい。

 意味がないものだらけの中で生きる自分の心が、何だか楽になった気がした。

 「ところで、その──」

 口にすべきかどうか、一瞬だけ考えた。

 指摘してはいけないかもしれない。しかし、指摘しなければ進めない。

 矛盾を孕んだ選択は、ついに、自分の口を動かした。

 「この道、さっきも通りましたよね」

 お姉さんと同時に、足を止める。

 自分とあの人との距離はおよそ五メートルというところだが、見えない壁でもあるかのように、ここから先へ一歩も踏み込めない。

 「どうしてそう思うの?」

 お姉さんは、自分に背を向けたまま訊いてくる。

 「さっきの休憩のとき、木の皮に傷を付けておいたんです。お姉さんが、わざと遠回りをしてるんじゃないかって、疑って」

 「聡いねぇ。あぁー、道を間違えちゃったかぁ」

 「いいえ、お姉さんは道を間違えてません。道を選んで、同じ所を通ってます」

 「へえ?」

 「お姉さんの動きには迷いがない。地図を見ようともしない。方角すら確認しない。まるで、この山のこの外れた場所を、よく知っているかのようです」

 「────」

 「何の意味があって、こんなことしてるんですか。お姉さんは、ここで何をしてたんですか。どうして、季節外れの冬物を着てるんですか」

 「一度に質問されても答えられないな」

 こちらに振り向いた顔に、数時間前の笑顔はどこにも残っていなかった。

 そこにはただ、悲しい顔をしたお姉さんが立っている。

 「ちょっと舞い上がってたんだ、久しぶりに人に会えたから。鳥は多くが群れずに飛ぶけど、私は鳥じゃないからね。一人はやっぱり寂しいや」

 「……質問に、答えてください」

 「あなたともっと話していたかったってこと。正しい道を教えたら、すぐお別れになっちゃうじゃんか」

 「それが、同じ所を歩いていた理由ですか」

 「──ごめんね? 私の中の悪い心が、あなたを振り回した」

 お姉さんに、そんなのがあったのか。

 意外ではあったけど、人間味ある悪戯に親近感が湧いてくる。

 人は誰であれ、善いことばかりできるわけではない。

 それはそれとして、無駄に疲れて段々と怒りも湧いてきたのだが。

 「ねえ、もう一回案内させてよ」

 「結構です。一人で山頂を目指しますから」

 「そんなこと言わないで! 今度こそ本当に、あなたを山頂に連れてくからさ。信じて!」

 「結構ですって」

 「お願い!」

 お姉さんは両手を合わせながら、頭を下げて懇願している。

 そこまでしてまでも自分と一緒にいたいらしい。

 その様子が何だか可哀そうに思えてきて、つい、許してしまった。

 「仕方ないですね。もう夜になります。一人で夜の山を歩くのは危険なので、あと少しだけ、お姉さんに付き合いますよ」

 「やった!」

 跳ね飛ぶかのように上半身を起こしたお姉さんは、喜び勇んでまた歩き始める。

 結局、何も分からなかった。

 それでもお姉さんが笑顔だったので、これでいい気がした。

 「一つ目の質問は、まあ、お姉さんの理由に納得してあげます。二つ目の質問に答えてください」

 「二つ目って、ここで何をしてたかってやつ?」

 お姉さんの淀みない足取りについていく。

 歩きながら会話をするほど余裕はないのだが、息を切らしながら、何とか問いただす。

 「何も──何もしてないよ、私は。ただ、日課の散歩をしてたの。空を見上げて、鳥の歌を聴いて、花の咲き具合を楽しんでた」

 「こんな山の、上の方まで毎日散歩してるんですか。電車で日帰りの登山をしてるって、言ってませんでした?」

 「昔はね」

 「昔?」

 言葉の意味が捉えきれず聞き返すも、お姉さんははにかむだけ。

 何か隠しているのは間違いないが、はっきりと言ってくれないことがもどかしい。

 「じゃあ、三つ目の質問です。そんな服を着ていて、暑くないんですか?」

 彼女が着ているものは、真冬に使うような防寒具だ。

 決して、木々の葉が緑に艶めく季節、クローゼットから引っ張り出してくるようなものではない。

 「んー。暑くはないし、寒くもないな。もう忘れちゃった、そんな感覚」

 「はあ?」

 「私がここに来たとき、雪が積もってた。あれから春が来て夏が来て、秋が来てまた冬が来て……。今は春だね。私は、どんな鳥が歌っているかでしか、季節を判別できないんだけど」

 「意味が……分からないです」

 嘘だ。

 嘘だ。

 ……嘘だ。

 お姉さんが何を言わんとしているのか、薄々と勘づいている。

 それを嘘と思いたくて、嘘を吐いた。

 「この先だよ」

 地形は随分と切り立っている。

 右手側は急な斜面になっていて、登るには一苦労しそうだ。

 左手側はほとんど断崖だ、小石が落ちて行って、下の林に吸い込まれ見えなくなる。

 お姉さんが指差したのはもちろん、右手側の斜面。

 「ここ、ちょっと急だけど、一段登ればなだらかになって、開けたところに出られると思う。山頂はすぐそこだ」

 「案内、ありがとうございます。お姉さんは一緒に来ないんですか?」

 「私? 私は遠慮しとく。それよりさ──」

 茜色の沈み切った、薄暗い空を背にして、お姉さんは透き通るような目をこちらに向けた。

 「私にもう少し付き合ってくれるなら、奥まで来て。何も知らずに、私とこれ以上関わらず帰りたいなら、そこを登って」

 「付き合います。お姉さんのことが、知りたいです」

 「そ。……いいよ」

 帰るにはまだ早い。

 それは怖いもの見たさの好奇心と、話し相手になってくれたこと、ここまで連れてきてくれたお礼の気持ちだ。

 何も言わなくなったお姉さんの後をついていくと、地形はどんどん険しくなっていく。

 踏んでいた土は岩に変わり、右手を石の壁に添えながら歩かないと、強風が吹けば、自分も小石のように落ちていくだろう。

 「ここだよ。狭いから、場所変わるね」

 狭い足場で、うまく自分と位置を入れ替えるお姉さん。

 お姉さんが退いて初めて、ここがもう行き止まりの道なのだと知った。

 そして、そこの岩肌に窪みがあることも。

 窪みには横たわるものがあった。

 見たことのある、青い小鳥のアクセサリーが付いたリュックサックと、日よけ帽。

 お姉さんと同じ格好をしたものが、そこにいる。

 服などの装備品は原型を残しているが、とても汚れて風化していた。

 横向きに寝そべるお姉さんの、頭蓋骨にそっと触れる。

 側頭部にヒビが入り、一部陥没していた。中は空洞、空っぽだ。

 「お姉さん」

 「うん」

 遺体に声を掛けると、後ろから返事が聞こえた。

 「どうしてここに案内してくれたんですか」

 「分かんないや。あなたは無事に帰そうと思ったのは本当で、でも、ここに連れてきたのは……。もしかしたら、見つけて欲しかったのかも」

 「お姉さんを、ですか?」

 「そう」

 背中越しの会話。

 自分はこうしてお姉さんの顔を見ているのに、変な話だ。

 この人はきっと、今日という日まで誰にも見つけられず、ここで雨風に吹き晒されていたのだろう。

 一人きりで、ずっと。

 誰に看取られることもなく。

 「足を滑らせちゃったんだ」

 お姉さんが言った。

 「雪の積もる木の枝に、小鳥が囀っていてね。つい空を見上げて、転げ落ちちゃった。馬鹿だね、人間はどうやったって空を飛べないのに」

 声には元気がない。

 「両脚を折って、登るも下りるもできなくなって、ここでずっと見てたんだ。この広い空と、そこを自由に飛び回る鳥たちを」

 振り向けば、視界には立っているお姉さんと、一面の夜空が広がっていた。

 暗い。

 暗いのに、お姉さんの姿だけやけにはっきりと、浮き出て映った。

 鳥の歌は聞こえなくなり、虫のさざめきが、静寂を支配する。

 「打ち付けた頭からの出血も酷くて、次第に意識がなくなって……。気が付けば私は、自分の死体を見下ろしてた。人って死んだら、本当にこうなることもあるんだね。無念とか、残してないつもりだったけどなぁ」

 未だに信じられない。

 そこで喋っているお姉さんは、本当はそこにいないのだ。

 生きていた頃の幻影、虚像、残滓、そういったものが彼女だった。

 「あなたの質問に改めて答えようか。私は死んでから、ずっとここに縛られている。だから、この山から離れることができないし、脚が折れててここより高い場所へは登れない。あなたと出会ったのは散歩の途中だったからで、服が季節外れなのは死んでから着替えてないから」

 淡々と説明されても、困る。

 そんな答えは望んでいなかった。

 そんな、寂しい答えは。

 「……ごめん。ちょっと暗いね、この話は。私はなんと、初めから生きている存在ではありませんでした! お姉さんは幽霊だったのです! 驚いた? ねえ、驚いた?」

 「まあ、流石にちょっと、驚きましたけど」

 「えぇー、本当? 反応薄くない?」

 お姉さんは頑張って、明るい声色で空気を変えようとしている。

 もしかしたら初めから、冷たい死んだ声がお姉さんの素で、自分の正体を隠すために、明るい声で演技をしていたのではないのだろうか。

 「ちょっとは驚いて、ぎょえーっ! みたいな叫び声を期待してたんだけどなぁ。残念残念」

 それはないか。明るい方が素だな。

 「ふふ、まあいいや。これが私の全部だよ。引き留めたみたいでごめんね、じきに真っ暗になるから、あなたは早く帰った方がいい」

 背負っていた自分のリュックサックを、彼女の遺体の横に置いた。

 チャックを開き、中から携帯用カセットコンロを取り出す。

 「おいおい、何してるんだい。早く帰りなって」

 火が点くことを確認したら、同じく持参してきた鍋に水を張り、沸かした湯にフリーズドライの味噌汁を入れる。

 次第に、いい匂いが漂ってきた。

 「ちょ、ちょっと……? 聞いてる?」

 「はい。今日は帰りません。ここで寝ていきます」

 「えぇー、判断早い! いや確かに、一人で夜の下山は危険だけど、でもここで寝ていくのはキツいと思うよ! 寒くなるだろうし!」

 「大丈夫です。緊急時に使える、アルミ加工の防寒シートがあります。この洞で火を焚きながら、これをカーテンみたいに外と区切りをつければ、熱が外に出ていきにくくなり温かいはずです」

 「わぁ、準備もいい!」

 「あと、帰らない理由は、夜になったからってだけじゃないですよ」

 「え?」

 「お姉さんと、まだ話していたくなったから。朝までお喋りしてくださいよ。音がある方がよく眠れるので」

 お姉さんはきょとんとしている。

 鳩が豆鉄砲を食ったよう、と言うのか。

 「──うん、分かった」

 にこりと笑ったお姉さんの顔は、きっと、生前からのチャームポイントだ。

 子供のような無邪気な笑顔で、大勢を魅了してきたに違いない。

 自分も、そのうちの一人だ。

 「ああ、お味噌汁美味しい……。お姉さんも飲みます?」

 「私、なんも食べられないのよ。ていうか、そもそも現実の物を持ったりできないし」

 「へぇー。あ、本当だ。透けちゃって触れないんですね」

 「逆に、私の着てる服とかリュックとかは、私しか触れないと思う。そっちの本物じゃなくて、私が今装備してる方ね。……あ、本物には触らないこと! 白骨化してても、ちょっと恥ずかしいです」

 「触りませんよ。でも、ここから無事に下山できたら、山の管理人さんに連絡して、本物お姉さんを連れて行ってもらいますからね」

 「え、いいの……? わざわざそんなことまでしてもらっちゃって」

 「一度これ見て、放置して帰れるわけないじゃないですか。下りましょうよ、山。一緒に」

 「やっさし~い! 超感謝、ありがとう!」

 空になった鍋を片付け、完全に暗くなる前に集めておいた、燃えそうな植物の綿毛にライターで火を点ける。

 そうして出来上がった火種の上に、また燃料となる木の枝などを置き、簡易的な焚火を作る。

 オレンジ色の炎は狭い洞穴を照らし、防寒シートが外との壁となってくれているお陰で、ひとつの部屋のようになった。

 「お姉さんの好きな野鳥を教えてあげようか。オオルリっていう、その名の通り真っ青な鳥が好きなんだ」

 「青い鳥ですか。なんだか珍しそうですね」

 「ちょうど今ぐらいの季節から日本に飛んでくる渡り鳥でね。特別珍しいってわけじゃないし、今日は会えなかったけど、この辺でも見られるよ。でも、青いのはオスだけで、メスは茶色なんだ。何でだろう、面白いね」

 「どこが好きなんですか? 見た目ですか?」

 「見た目もいい。だけど、声が一番だね。笛の演奏みたいな美しい音色で、色んなパターンの歌があるんだ。ぴーひーひーひーって。日本三鳴鳥のひとつというのは有名なところかな」

 「はぁ……。味は美味しいのかな」

 「あなたねぇ、鳥は全部食べ物じゃないんだよ」

 「ごめんなさい。続きを聞かせて欲しいです」

 壁に背を預け、火を見ながら、他愛のない話を続ける。

 時間は流れをおかしくしたかのように、ゆっくりと進む。

 お姉さんと話していると、不思議と落ち着いた。

 どうしてなのかと考えれば、それは、お姉さんが自由な人だったからだ。

 ただ喋らせてあげるだけでも、その野鳥に関する話のレパートリーは尽きない。自分から軽口を言ってもいいし、辛い都会生活について駄弁ってもいい。お姉さんには何を話しても恥ずかしくなかった。

 家族にも話しにくいことがある。友達にも話しにくいことがある。恋人は……いないけど、一緒に働く人とも話しにくいことはある。

 自分と居場所を共有するような間柄だと、関係性に縛られて言えないことも、お姉さんには関係ない。

 だって、もう亡くなっているんだから。自分とお姉さんは、何も関係のない赤の他人。だからこそ何でも口にできる。

 「ひとつだけ、いいですか?」

 「何?」

 「お姉さんは、山を登り切った山頂で、絶景を見ます」

 「うんうん」

 「そのとき、ここから落ちて死ねたら楽だな、とか思ったことありますか?」

 「……え、急にどうした?」

 急に声のトーンを落とすお姉さん。

 この質問は予想外だったか。

 「自分はよくそう思うんです。今日もきっと、正しい道を選んで、お姉さんに会わず登っていたら、山頂でそう思ったはずです。そしていつか、本当に実行してしまうかも」

 「そんなの駄目」

 きっぱりと、お姉さんは断定した。

 「どうしてそんなこと思うの?」

 「人生が楽しくないからです。意味もなく生きて、苦しみ続けるぐらいならいっそ、ここからいなくなったって構わない」

 誰にも言えないことを今初めて、心の中から口を通して、外へ吐き出した。

 こんなことを話しても、お姉さんを困らせるだけだ。

 そう分かっているのに、でも、聞いてほしかった。

 醜い自己満足だ。

 「生きることに意味がないって、本気で言ってる?」

 そんな自分に、お姉さんは怒っていた。

 「生きてることは、ただ、生きてるってことだけでいいんだよ。意味があるとかないとか、関係ない。あなたのお父さんお母さんが生きていたから、あなたがここにいるの。もっと言えば、あなたのずっと前の御先祖様が生きていてくれたから、今、私とあなたはここで出会えた」

 「お姉さん……」

 「いい? 二度とそんなことを言っちゃ駄目。私は今日という日を、死んでから一番意味のある日だと思ってる。だから、今日まで生きていることを否定して、そんな私の気持ちまで無意味にしないで」

 「……ごめんなさい」

 なんて人だろう。

 この人は、全力で自分の自己満足を否定してくれた。自分が無意味と言った人生を、意味があると肯定してくれた。

 誰かに怒られたのなんて、久しぶりな気がするな。

 自分のことを考えて諭してくれる声に、暖かな、優しい響きを覚える。

 「これは、人生をあなたより先に進んだお姉さんからのアドバイス。どうしても人生に意味が欲しいなら、それは自分で決めなさい。私からあなたに、どう生きなさいとかは言えないの。鳥が誰に言われずとも空を飛ぶように、自分で生き方を見つけることが、本当の自由だと思うから」

 「本当の自由……。参考までに、訊いていいですか。お姉さんの生きる意味を」

 「私? もちろん、鳥になることだよ。季節と共に棲家を変え、風と共に歌う。自分の好きな場所に、自分の翼で飛べる。そんな日を夢見て、夢見たまま死にました。でも人生、そう悪くなかったよ」

 お姉さんは達観している。

 そんな若い年で、不慮の事故で死んでいて、夢さえ叶っていないのに、終わった人生を悪くないと評価する。

 そう言えるのなら、お姉さんは、幸せな人生を送ってきたのだろう。

 他人の人生の幸か不幸かなんてどうでもいいはずなのに、自分は、お姉さんが悪くないと言える人生を送っていたと知って、ほっとした。

 鳥、翼を持ち、地に縛られぬ歌い手よ。

 手の届かぬものにこそ、人は想いを馳せるものなのかもしれない。

 そんな生き方に、自分もいつの間にか魅せられていた。

 お姉さんみたいな在り方が、羨ましい。

 自分にとっての自由と幸せを、そこに夢見た。

 ああ──

 素敵だ──

 「……寝ちゃった?」

 その声で、僅かに意識を覚醒させる。

 閉じた瞼の黒の内に、お姉さんの囁きが響く。

 「今日はすっごく楽しかったよ。久しぶりに誰かと話して、好きなことを語って、笑い合って。胸に空いていた穴が埋まったような気分」

 瞼を開けようとしても、どうしてか開かない。

 口を、身体を動かせない。

 「無念がないだなんて言ったけど、今日ね、あなたと話す中でようやく思い出した。私、寂しかったんだ。私は一人暮らしで、この山に来たことを誰にも伝えてない。誰も、私がここで死んだことを知ることはない。誰も、私の死体を葬ってはくれない。そう思ったら、死の間際ですっごく怖くなっちゃってさ。せめて誰かに、覚えておいて欲しかったんだね。私がここにいることを」

 家族にさえ自分の死を知ってもらえないのは、あんまりだ。

 誰かと関わることが嫌になり、山にまで逃げてきた自分だが、それでも、死ぬときは一人になりたくないと思う。

 矛盾している。だが、一人では生きられないし、死にたくないのは、人間と言う生き物の性なのだろう。

 「私を一人にしないでくれてありがとう。嬉しかった。あなたが、私と下山してくれるって言ったとき。いい気分になって──私、もうここにいる意味はないなって、そう感じたんだ」

 ──意味はない。

 お姉さんが口にするそれは、マイナスの意味合いを含んでいない。

 誰かに自分のことを知ってもらえたお姉さんが、自分という影の存在意義は果たされたと、死後を満足した証の感想だ。

 「駄目だな。これ以上話してると、決意が鈍って永遠にここにいちゃいそう。私は死んでるんだから、もう消えなきゃ」

 消える?

 「死者が生者に関わるのはよくないね。この世界は命ある生き物のものだ」

 必死に声を出そうと、藻掻く。

 動けない。金縛りに遭っていた。

 隣にいるはずのお姉さんに、声ひとつ返すことさえできない。

 「あなたは、あなたの空を飛んで。空はどこまでも自由だから」

 待って。

 まだ行かないで。

 最後に、お礼を言わせて欲しい──

 「……あ」

 防寒シートの隙間から、朝日が漏れている。

 火が消えて、灰を残した焚火跡。

 風化したリュックサックと、自分の荷物。

 蹲って、服にくるまれた骸骨。

 そこには、お姉さんの姿だけがない。

 昨夜まで隣にいてくれた、あのお姉さんだけが、夢幻の如く消えている。

 立ち上がり、杭で壁に穿たれた防寒シーツを剥がす。

 洞から顔を出して、辺りを見回すも、あの人はどこにもいなかった。

 行ってしまったのか。別れを告げることもできないままに。

 そのとき、笛の音が聞こえた。

 反射的に空を見上げると、青い小鳥が一羽、登り征く日に向かって飛んでいくところだった。

 朝に焦がされた空は、瑞々しい果実のようで、目が眩むほどに輝いて。

 ああ、そうか。これがお別れだ。

 あのオオルリはお姉さんで、ついに、鳥になれたんだ。

 そして今、自分に別れの挨拶をしてくれた。

 鳥の言葉なんて分からなくても、自分には、間違いなくそう理解できる。そう受け取れた。

 「さようなら──」

 違う、もっと大きな声で。

 じゃないと、翼をはためかすあの鳥には届かない。

 「さようなら、お姉さん! 自分も、お姉さんとお話しできて楽しかったです!」

 思いっきり、疲れるほどに、息を切らすほどに手を振る。

 夢を叶えたオオルリは空を飛んでいた。

 優雅に、その名を示す瑠璃色の翼を広げ、気持ち良さそうに。

 朝日を浴びて、一日の始まりを、全身で吸い込みながら。


 ──これは、とある初夏の日の出来事。

 自分とお姉さんとの、決して忘れ得ぬ出会いと別れの思い出。

 夢のような、一日足らずの一幕。

 それを、お姉さんの持っていた、青い小鳥のアクセサリーを見るたびに想起する。

 あの後、お姉さんの家族に、お姉さんが亡くなっていたことがようやく伝わった。

 自分はお姉さんの家族に会いに行き、事の顛末を話した。

 どうしても伝えたかった。お姉さんは、道に迷った自分を助けてくれるような、意味のない自分に意味をくれるような、それでいてちょっとお茶目で寂しがりやな、とってもいい人だったんだって。

 信じてもらえるとは初めから考えてはいなかったが、お姉さんの御両親は泣いて話を聞いてくれた。

 そして、お姉さんの形見がひとつ欲しいと言ってみると、快く了承してくれたのだ。

 手のひらサイズの青い小鳥は今、綺麗な色に生まれ変わっている。

 野ざらしにされてこびりついた汚れを、できうる限りに取ってあげた。

 彼女が遺した夢のカタチ、美しいオオルリは、進むべき道を示してくれる。

 絶え間なく続く世界の中で、一点の曇りもなく。

 ──益体のない日々が、一夜でどう変わったということもない。

 自分はこれまでと何ら変わりなく、朝に家を出て、仲間と出会い、日が暮れてから家に帰る。

 社会という鎖で縛られたこの都会で暮らす。

 休みの日にはあのときのように、こっそりと都会から抜け出したりするのだろう。

 ただ、今まで意味を見出せなかった自分の人生とは、お別れすることにした。

 意味がないのなら、作ってしまえよ。それが自由な生き方というものだ。

 自分だけの生きる理由は、あの日から、胸の中に。

 広い、広い青空は、都会の上にどこまでも続いていた。

 気が付かなかったな、空がこんなに大きいなんて。

 暗い淀んだ気持ちも、空の青に融けて消えていく。

 いつか自分も鳥になって、飛び立ってみせるから。

 そしたら、お姉さんに会いに行こうか。

 踏み出した一歩は、まっすぐな道を歩き始める。もう迷うことはない。

 ちゃり。

 鞄に付けたオオルリが、音を立てて揺れた。

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迷い路のオオルリ 白ノ光 @ShironoHikari

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