喪失。

弥生 菜未

魔女と命

 私は魔女と旅をしていた。

 魔女も旅も、命と同様に尊いものであったが、それらの終わりはもう、近くへやってきているのかもしれない。


「セリ、ごめん……ね」

「お姉ちゃん、謝らないで。私は大丈夫だから」


 この世界で魔女、魔法使いと呼ばれる人間は、魔法を使える代償に不治の病を抱えている。失われていく身体の機能を体内の魔力が補い、命を繋いだ。

 けれど、何事にも限界がある。

 お姉ちゃんの死期は近い。

 広い草原に建てられた小屋の中で、私はお姉ちゃんの手を握る。物理的な刺激ではないのに、私の心臓に訴える激しい痛みのせいで、立つこともままならない。

 離れたくない。失いたくない。

 涙は拭った側から流れ落ちて止まなかった。窓から入り込む風は少しの冷気を孕み、草原の匂いを運んでくる。

 最後の悪足搔きがしたいと言うお姉ちゃんが建てたレンガ造りの小屋。ここでお姉ちゃんは目覚めが訪れるか分からない、長い眠りにつく。


 でも、死ぬわけじゃない。


「私、は…………こ、こで……待ってる、から…………セ、リは、世界を見て、おいで。…………い、つでも、帰って……きて、良いから。……セリは、今…………ここに、いては、いけ、ない」


 この小屋小さな世界に閉じ籠ってはならない。お姉ちゃんはそう言って、私を送り出そうとしている。

 もし私が魔女だったなら、お姉ちゃんの痛みを共有できたのに。お姉ちゃんを生かす方法を絶対に見つけるのに――――。

 本当に、私は無力。お姉ちゃんの意向に沿い、黙って送り出されることしかできない。


 私は立派な馬に跨がって、お姉ちゃんが眠る小屋を後にした。




「そこのお嬢ちゃん、パンを一つどうだい?」

「えっと、じゃあそのパン、二つください」

「あらぁ、気前が良いわねぇ!」

「いえ、そんなことは」


 パン屋のおばさんは嬉しそうな顔して、少し料金をまけてくれる。


「まいどあり!」


 私は小さく一礼をすると、その場を離れる。

 ただ丁度昼食時だったから買っただけ。

 ただ、お姉ちゃんの分を買っただけ。

 あぁ、なんだか心が痛い。

 世界が私に優しくする度に、私はお姉ちゃんを思い出して涙が込み上げるのを必死に堪えた。

 世界は優しいのに、現実は酷だ。私に"永遠の幸せ"を与えてはくれない。


 ◇


 私は始まりの土地へと向かっている。私とお姉ちゃんが初めて会った場所。それは私の生まれ故郷でありながら、お姉ちゃんの旅の一つだ。

 "お姉ちゃん"は実姉ではない。流行病で全滅した村唯一の生き残りである私を、お姉ちゃんが引き取ってくれた。お姉ちゃんは私に"別れ"を教えてくれた、大切な人。

 馬を十日走らせても、たどり着く気配を見せない。

 それほど、私とお姉ちゃんは長く二人旅をしていた。




 旅を始めて一月が経った頃。私はある国へ到着した。ここは、魔法使いが王様国。以前通りがかったことがあるが、今がどうかは分からない。

 でも、もしかしたら何か、魔法使いが生き長らえる方法が記された書物があるかもしれない。そう思って、私はその国の門をくぐった。

 国で一番大きな図書館、王立図書館を訪れ、探す手間を惜しんだ私は、司書に真っ先に聞きに行く。しかし司書は真剣な顔つきで淡々と言葉を発する。私の想定していなかった言葉を。


「貴方は魔女ではありませんね。――――貴方は、自身の命と魔法使いの命、どちらの方が尊いものだと考えますか?」

「え? えっと…………私は、自分の命も魔法使いの命も.同等に尊いものだと思います。優劣はなく、個人の価値観に委ねて良いものではない、と思います」

「では、なぜ命は尊いのですか」

「なぜ?…………人が、幸福を感じる瞬間が、命ある時…………。一度きりしか訪れないものだから――――」


 呟くように、言葉を吐き出した。

 なぜ、尊いのか。

 そんなこと、考えたこともなかった。


「――――とても残酷な答えですね。生と死は表裏一体。生かされる魔法使いは、再び死への恐怖と向き合わなければならない。辛い現実から目を背けることができない。生きるとは幸福だけではありません。大変なこと、辛いことがあって、"死にたい"と思う時もある。生きることが幸福か。それは貴方が決めることなのでしょうか。貴方が推し量れることでしょうか。私が何かをお教えするというのは、魔法使いの命を軽んじているように思えて仕方ありません。どうか、お考え直しいただけますか」


 残酷。司書の言葉が耳に残る。

 私がお姉ちゃんに生きていてほしいと願うのは、私のエゴなのだろうか。

 命の期限を引き延ばすことは、間違いなのだろうか。


「生意気な司書の言葉ではありますが、どうか――――どうか、当人の幸福を考えてやってはいただけませんか」


 考えるほど、何かが崩れていく。私を支えていた何かが、砕けていくようだった。

 思考力が朽ちて、胸中で増幅する不安を抱えて、私は王立図書館を飛び出た。

 そして数刻後には、目的地へと、無心で馬を走らせていた。


 ◇


 私は何日馬を走らせただろうか。時々休憩を挟みつつも、日にち感覚が分からなくなるほど馬が走って、漸く目的地へたどり着いた。


「お父さん、ただいま」


 私が初めて"別れ"を告げた人。

 白い花を両手いっぱいに抱えて、私は墓の前に立つ。流行病で全滅した村、流行病で亡くなった父。

 もはや建物とは呼べない残骸と無遠慮に伸びる草花が視界の端に映る。


「お父さん、私はどうしたら良いのかな」


 当時のショックが大きかったせいか、長い月日が流れたせいか、父との記憶は少ない。それでも今、私が弱音を吐ける存在は他にいなかった。優しかった長老も、仲の良かった友達も、私を産んですぐに亡くなったという母も、きっとこの廃村のどこかで眠っている。けれど、私が嬉しいとき、悲しいとき、腹を立てたとき、その感情を共有していたのはいつだって父だった。そして、自分の身を顧みず私を守ってくれたのも、父、そしてお姉ちゃんだけだった。

 断片的な記憶が甦ってくる。

 涙は枯れることを知らない。


「お父さんっ……、お姉ちゃんっ……!」


 私はまた、一人になっちゃうの?

 私が無力だから?私がずっとお姉ちゃんに甘えてばかりだったから?

 だから神様は、私からお姉ちゃんを離そうとするの?

 私がその場に崩れ落ちると、一緒に落ちた花束から二枚、花びらが風に攫われた。一枚がお父さんで、もう一枚がお姉ちゃん。私が持っている物は、いずれすべて神様に奪われてしまうんだ。


 そう思ったとき、土の中に紛れる"何か"に手が触れた。


 ◇


 もしこれがセリの手に渡ったのなら、続きを読んでほしい。

 もしセリ以外だったら、申し訳ない。元の場所に戻してください。


 まず、セリ、ごめんね。

 余命五年と聞かされて、セリと出会って、セリとの時間を過ごして――――。

 一体どれ程経っただろう。私はどれ程セリの中に残れただろう。

 父親に別れを告げて泣きじゃくるセリに、別れを綴ることを許してほしい。「私がいる」とセリを抱きしめた手で別れを綴ることを、どうか、許してほしい。


 私は『今の生き方』を知るために旅に出たけれど、私が思うに、すべてはこのときのためにあったのだと思っている。

 セリと出会うために、『死』を恐れて、『死』に悲しんで、『生き方』に迷った。それらはきっと、すべてが必然。

 触れたら壊れてしまいそうなセリに、『"生きること"と"死ぬこと"』について教えるために、私たちは出会ったんだ。

 何だか、ありきたりな言葉だね。

 今のセリは何歳で、どう育ったのか、気になるなぁ。


 セリ、私は今、死ぬことを恐れてはいないよ。

 覚悟を決めたからではないの。ただ、

 セリには悲しい思いをさせるかもしれないけど、セリの生きたいように生きて、したいことをして、幸せに満ちた笑顔でいてほしい。

 セリはきっと生死を考えて迷って、時には悲しさや苦しさを感じるかもしれない。けれど、どうか死に囚われて、生きることを忘れないでほしい。


 ◇


「あのね、お姉ちゃん」


 お姉ちゃんの横顔は変わらない。

 時間停止の魔法がかけられた蚊帳の中で、あの時のまま、眠っている。


「魔法使いが、魔女が、生き長らえる方法――――」


 お姉ちゃんの手を握る。


「見つからなかったよ」


 でもね、あの司書の人は教えてくれた。帰路をたどり、再び魔法使いが王様だった国を訪れて。




『命とは、難しいものですね』


 お姉ちゃんがこの場所王立図書館を訪れたと、司書は言う。私とこの国を通ったときには、寄り道をした記憶はないのに。


『命を考える機会を与えてほしい、と頼まれました。閉館間際の、夜遅くのことです。いずれ来る少女のために、と』


 私は力になれたでしょうか、と司書は苦笑いを浮かべた。

 私はいつだって、お姉ちゃんに守られ、見守られていたのだ。そのことを、私は漸く思い知らされたのだ。

 貴方は一人じゃない――――と。




「お姉ちゃん、昔みたいにさ、旅の話をしよう。今度は私が、お姉ちゃんの知らない世界を見てくるから」


 それは、私とお姉ちゃんだけの、特別な時間。


「楽しみに、待っててね」


 願う。永遠の幸せを。いつか目覚める瞬間を。


 時間を越えた、お姉ちゃんからの手紙を握りしめて、私は小屋を後にした。

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