あなたの前では正直に

三鹿ショート

あなたの前では正直に

 彼女が立っているだけで、古びた集合住宅は、まるで映画の世界の一部のように見えてしまう。

 遠目からでも、照明に当たっているかのように、その存在は明確だった。

 思わず見惚れていると、彼女は私に気が付いたのか、手を振りながら近付いてきた。

「突然で申し訳ありませんが、しばらく共に生活しても構いませんか」

 言葉の内容に反して、表情には変化が見られない。

 だが、彼女が言葉通りの感情を抱いているということは、経験から分かっていることだった。

「私には特段の問題は無いが、きみは大丈夫なのかい。色々な撮影があるのではないか」

 知らない人間を探す方が難しいほどに、彼女は有名な役者だった。

 街を歩けば彼女の写真が使用された看板を目にすることが多く、映画館に行けば、必ずといって良いほどに彼女が出演している映画が公開されている。

 私と共に生活するよりも、彼女のためならば喜んで働く人間たちに囲まれていた方が楽なのではないだろうか。

 私の疑問に対して、彼女は首を横に振った。

「しばらくは、仕事を休むことにしたのです」

 おそらくそれを知っている人間は、彼女以外には私だけだろう。

 だからこそ、驚きのあまり、私は大声を出してしまった。


***


 彼女とは、同じ学び舎に通っていた。

 当時から彼女の美貌は生徒の間では評判で、憧れの感情を抱いている人間も多かったが、常に感情を露わにしない態度が影響していたのか、近寄る人間は皆無だった。

 しかし、彼女の隣の席だったかつての私は、恐れ知らずの阿呆で、立ち入りを禁止されている場所にも迷うことなく入っていくような人間だったのである。

 だからこそ、彼女に臆することなく、声をかけていた。

 彼女の返事はほとんど一言で終わっていたが、私がそれを気にすることはなかった。

 ゆえに、卒業するまでの間に彼女と親しくなった人間は、私くらいのものだった。

 今にして思えば、恥ずかしい振る舞いをしていたものである。

 だが、その結果として、彼女が頼ることができる人間の一人として選ばれたのかもしれない。

「何故、仕事を休むことにしたのか、訊いても構わないか」

 散らかった部屋を片付けながらそう問うと、彼女は口を開こうとしたが、即座に閉じた。

 その反応から、話すことを避けたいような事情があるのだろうと察した。

 私は手を振りながら、

「今の発言は忘れてくれ。何か、食べたいものはあるかい」

 それから私は、彼女のことを有名な俳優としてではなく、古くからの友人の一人として、接するように決めた。

 しかし、役者としてではなく、一人の女性を相手にすることにも、問題があったのだ。

 狭い室内に異性と二人きりになったことなど一度も無い私にとって、彼女の存在は刺激的だったのである。

 嗅いだことのない匂いが室内に満ち、私は眠ることができなくなってしまった。

 心中で数字を順番に並べていたところで、不意に彼女が声をかけてきた。

「寝ていますか」

 私が返事をするよりも先に、彼女は言葉を続けた。

「これは、私の独り言です。あなたが聞いていようとも、聞いていなくとも、気にすることはありません」

 それから、彼女は語り始めた。


***


 いわく、彼女は自分を見失ってしまったらしい。

 自分自身がそれを表現することなどありえないであろう人間を演ずることに面白さを見出し、そこに俳優としての素質が加わったのか、彼女は瞬く間に有名になった。

 次々と舞い込んでくる仕事に目が回りそうになったが、それでも種々雑多の人間を演ずることは、彼女にとって幸福だったのである。

 だが、あるとき彼女は、ふと気が付いた。

 周囲が求めているのは、一人の人間としての自分ではなく、優秀な役者としての自分なのだということを。

 数多くの人間の人生を演じてきたが、彼女そのものの人生を知る人間は存在せず、まるで自分が人々の手によって作り出された機械なのではないかと考えるようになってしまったのだ。

 それを意識してしまった瞬間から、彼女はそれまでのように役を演ずることができなくなってしまった。

 それは様々な人間に迷惑をかけることに繋がり、混乱する現場を見た彼女は、思わず逃げ出してしまったのだった。

 今や自分には居場所がないと思っていたが、そこで彼女は、偶然にも私が住んでいる地域の近くまで来ていた。

 過去を知る人間である私の傍にいることで、今までの自分を取り戻すことができるのではないかと考え、彼女は私が住む集合住宅を訪れたということだった。


***


 他人事のように淡々と語ったが、彼女がそれほどまでに長く喋ったことなど一度も無いことを考えると、相当に参っているのだろう。

 おそらく、今も彼女は表情を浮かべていないだろうが、その心中は不安で満たされているのかもしれない。

 ゆえに、私は口を開いた。

「これは、私の独り言だが」

 そう前置きしてから、

「きみは多くの人々に求められ、相応の報酬を得ている。何の才能も無い人間からすれば、羨ましい人生だろう」

 彼女が口を挟まないため、私は続ける。

「しかし、他の人間と同様に、きみにも人生がある。きみがどう感じ、どう思うのかは、きみ以外の人間が経験することはできない。同時に、きみの悩みも、きみだけのものだ。だからこそ、その悩みを解決するために私が必要ならば、いくらでも時間を割こう。きみが活躍している姿を見ることができないことは、私も残念だからな」

 彼女は、何も答えなかった。

 私もまた、それ以上の言葉を発するつもりはない。

 私にとって、彼女と知り合いであるということは、誇らしかった。

 彼女が活躍するたびに、私は自分のことのように嬉しくなったが、それと同時に、彼女が悩んでいるのならば、古くからの友人として、その解決を手伝いたいという思いも持っている。

 彼女が演劇界にとって欠かすことができない存在ならば、私にとっての彼女は、欠かすことのできない友人なのである。

 ゆえに、私だけは、何があっても彼女の味方でいることを決めた。

 仕事を放棄した彼女を世間が責めたとしても、私だけはこれまでとは変わらずに、彼女を受け入れるのだ。

 その決意を胸に、私は再び目を閉じた。

 睡魔に襲われ始めたのは、彼女に対する認識を改めたためだろうか。

 夢の世界に旅立つ瞬間、

「ありがとう」

 そのような言葉が聞こえてきたような気がした。


***


 翌日の朝、彼女の姿は消えていた。

 その代わりのように存在していた書き置きによると、仕事に戻ることを決めたらしい。

 彼女が決めたのならば、私が何かを言うわけにもいかないだろう。

 ただ、彼女が再び戻ってきても良いように、私は彼女が使用するであろう食器などを用意しておこうと決めた。

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