第29話 生命の樹を賜るということは


「いいかぃ? 後半刻もすればこの水面がゆっくり後退して拓けていく。そして徐々に白い道が見えてくるから、そこを辿る様に行くんだ。当然だが馬車は置いて行け。道幅は狭いし、何せ元は海中だ。臆病な馬がまともに歩ける保証はそんなにないからな。それから、道はゆっくり拓けていくが焦れない様にな。あんたらが島に着くまでは少なくとも水が元に戻りはしない筈だ」


 そう言いながら、月明かりの下でキヒムはテレントとグドにひとつずつ深緑色の翡翠の腕輪を手渡し、腕にはめるよう促す。

 翡翠は魔除けの効能があるとされている鉱物で、昔からこの国では生まれたばかりの子どもが天に帰ってしまわないようにと身につけさせる習慣がある。そんなものを既に成人を迎えている二人に身につけさせるのには理由があった。

 今からテレント達が行く神の島と呼ばれる露島と、最も近い街丙午の間を繋ぐ道は、この世とあの世を繋ぐ、言うなれば魂のあり処の曖昧な場所だとされている。

 そのため、この世ならぬものが多く道の周りを取り巻いており、時としてそこに人が引きずり込まれてしまうこともある。特に、自身の魂に対して無防備である純血種の人間が捕らわれる傾向が強いらしく、その用心にとキヒムはふたりに翡翠の腕輪を手渡したのだ。


「まあ、あんたらには優秀な闇の術の使い手さんがいるから、よっぽどの無知な低級魔じゃない限りちょっかいを掛けてくることはないだろうけどな」


 そう、悪戯っぽく少年の様にキヒムは微笑み、グドとテレントは頷く。

 東南部の真夏らしく纏わりつくような夜気が一行の肌に汗を滲ませる。遠く河沿いに立ち並ぶ家々の方からは虫の鳴く声が聞こえ、ただ煌々と輝く望月がぽっかりと闇に浮かんでいる。

 降り注ぐ月光は一行の佇む岸部とその眼前に広がる河口の水面を包むように照らし、風はなく、水面は波一つ立たない穏やかな様子だ。

 静寂がまるで生き物のように辺りにじっと潜んでいる闇の中、彼らはその時を待っていた。


「あれ? 波が……」


 ふと、河の方を見ていたグドが呟き、同時に指された方を一同が見やると、風もないのに河の水面がすぅっとさざ波と共に退いていく様子が見えた。

 波がするすると滑るように沖の方へと退いていくに連れ、彼らの眼前には白く磨き上げられたように眩く輝く砂利道が現れ始める。

 キヒムの話にあったように、それは確かに月下に輝く白い道であった。まるで真珠を敷き詰めたような白金色に輝く道の美しさに一同は思わず息を呑んで言葉を失った。

 この道の先に、この世の魂のもととなる実の生る樹と、それを護る神獣がいる……迫る大事にテレントは武者震いを覚える。ぎゅっと腕輪を嵌めた方の腕の拳を握りしめ、自らにこの道を進むことに躊躇いがないのを確かめるかのようにひとつちいさく頷いた。

 やがてはっきりと姿を現した道の入り口となる辺りまで一行が歩いて行くと、キヒムが歩みを止めた。


「俺が行けるのはここまでだ。番人は無用に道に立ち入るわけにはいかないんでな」


 テレントとメルはキヒムに深く頭を下げてここまでの案内に感謝の意を示し、そしてゆっくりと顔をあげて一歩一歩白い道を踏みしめ進み始める。

 光と闇に辺り一帯の音が吸い込まれたように静寂に包まれる景色の中、ひとり岸辺に佇むキヒムが五人の旅人を見送ってくれた。



 しゃりしゃりと細やかで儚い足音がいくつも重なりながら続く。ひたひたと沓の爪先に退ききらなかった水が絡むように吸いつく音もする。誰も、何も言わぬままに五人は道を進む。

 頭上をゆらゆらと、海月くらげの様に身体の透けた、軟体の浮遊物がいくつも飛び交う。時折それは煌めき、まるで彼らに微笑みかけているようでもあった。

 この道を進み始めた時には確かに真夏の極ありふれた夜の闇であった筈なのに、深い緑や青の闇の色ともつかない空がその上に広がっている。

 あれほど煌々と輝いていた筈の望月も見えないが、彼らの周りや足元は不思議なやわらかい明るさに包まれていた。

 時折、連なって歩く彼らの間を、ひやかすように淡い色合いの翼を持つ鼠のような小さな獣がすり抜けていくこともあった。


「……確かに、ここは俺らが住んでる処とは違う…」


 誰かがぽつりと呟き、呟かれた言葉につられる様に一同はそれぞれの頭上を見上げる。月の輝く夏の晩であった筈の景色ではなく、これまで見聞きしたことも想像すらもしたことのない不思議な生き物が漂い飛び交う光景が広がる眼前に、一同は呟かれた言葉に同意するように頷くばかりだ。

どこからか唄うような囀る声が聞こえてきた。まるで道から外れた向う側へと誘うようなそれは、確かに心に隙があれば容易く引き込まれてしまいかねない。

 これまでに見た事のない美しい景色、囀り、生き物や花の姿に心乱されてしまえば、それは旅の、目的とは違う終わりを意味しているのだと言うことがテレント達は徐々に解り始めていた。



 歩き始めて幾らかの時間が過ぎ、ゆらりと薄桃色の絹帯のような蝶々が彼らの前をいくつも群れで通り過ぎた頃、彼らの歩む路のはるか先にひときわ明るい光に包まれている場所が見えてきた。深い闇の中に浮かんでいるようにそこは丸い光に包まれたそここそが、一行の目指す露島だ。

 島まであと幾里の距離もないのだが、それでも島の面積の狭さを感じてしまうのは、やはり島の中央にそびえる黄来禽の原木の大きさのせいもあるのだろう。

 目測から、樹の幹は大人が十数名程手を繋いで取り囲んだぐらいの太さがあり、高さは天を流れる雲を梳けるほどに高い。

 茂る葉は青く艶やかで、木漏れ日のように見える葉や枝の隙間から零れ落ちる光の欠片は夜空に散りばめられた星の瞬きの様だ。

 丙午の岸辺に居た時は影も見えなかった巨木の姿と取り巻く景色の美しさに、一同は言葉をなくしていた。

 島にいよいよ足を踏み入れ、樹の根元の辺りを見ると、揃いの薄桃の着物と、濃い桜花色の裙を身につけた仙女達の姿がちらほらとあった。皆一様にこちらを向き、じっとこちらを見据えている。

 老若様々な容姿の仙女らの眼差しは彼らの上陸を拒むでも迎えるでもなく、ただ淡々と目の前に現れた珍しい客人への好奇心のようなものを注がれているだけに過ぎないようにも思えた。

 ひとりの最も年嵩のあると思われる姿の仙女が五人の前に静かに進み出て、ゆったりとした笑みを浮かべ、「お待ちしておりましたよ、さあ、こちらへ」と、述べた。

 自分たちの来訪を既知していたかのような口ぶりに思わずお互いの顔を見合わせる。

 促されるまま仙女の後について黄来禽の樹の方へと近づいていき、人の背丈ほどもあろうかと思われる巨木のうねった根の隙間を縫うようにして進んでいくと、やがてぽっかりと樹の根に囲まれる様にして空いている場所に出た。

 六人の人が立ち入ればたちまちに窮屈さを覚える空間の前方には大きな洞があり、人ひとり座れそうな広さと形をしたそこには、淡く金色に輝く靄のような光の塊のようなものが漂っているように見える。

 宙に浮かんでいるようにも見えるそれに向かい仙女が跪き、深々と叩頭した。


「露神様、件の旅人をお連れいたしました」


 そう、彼女が述べると、光はゆっくりと徐々に縦に長く伸び、やがてそれは人の形を成していく。

 眩いほどの光はやがてその輝きのままに長く美しい髪に、ぼんやりと淡い光を放っていた個所は透き通るほどに白い人肌に変わっていた。

 男とも女ともつかぬ美しい容姿は人のそれと何一つ変わる事はないように見えたが、よくよくその額を見ると、子供の指先ほどの長さのささやかな角のような物が生えている。

 髪と同じ色をした瞳がやわらかく綻び、案内をしてくれた老仙女に倣って叩頭をしていたテレントらに微笑みかける。


「顔を上げて下さい、皆さん。長い旅、ご苦労様でした」


 道中の苦労をねぎらう露神の言葉に、一同は恐縮と極度の緊張に地についた指先を震わせる。天帝の使いである露神の姿を拝めるばかりか労いの言葉を賜るとは夢にも思わない事だからだ。

 やがて恐る恐る、彼らは顔を上げ、一行の先頭についていたテレントが口を開いてこの旅の目的を露神に述べ始めた。


「露神様、私の郷は黄来禽を焼失してしまいました。郷は待ちわびていた新たなる生命を失い、将来への希望さえ陰り始めております。このままでは郷は失意のままに滅び、死に往くのを待つばかりであります。私には、新たな命を待ちわびていた者達へ失くしたそれを届ける責務があります。どうか!どうか新たなる黄来禽の樹を授けていただけないでしょうか」


 テレントの声は対峙している露神から漂うあまりの神々しさに畏怖し、震えてさえいる。 それでも、再び深く地に頭を垂れながら振り絞るように述べた言葉は、紛れもなく彼の、いや、彼に郷のすべてを託した者たちの心からの願いの声だ。

 樹を失ってからテレントの屋敷には毎日献花に訪れる人々の出入りが絶えない。闖入者による放火というあまりに惨い仕打ちに怒りや悲しみを抑えきれず、焼け跡に花を供えて後立ち上がることすらままならない者も少なくないという。

 テレントが新たな樹を賜りに旅に出ることを決めた際も、彼を激励しに多くの人々が屋敷に訪れ、皆口々に彼の無事と、それ以上に黄来禽の樹を再びこの地に授けられることを期待する言葉を彼らに掛けた。

 その言葉の一つ一つに込められた想いはどれも生半可な決意で受け止めることさえ出来ない程重く、彼らの、殊にテレントの上に重くのしかかった。

 重責に思い悩み、潰されそうな苦しさを覚えることもしばしばであったが、テレントはそれを、樹を護るべき者でありながら護れなかった自分への責務として負い続けていたのだ。

 再び深く叩頭したテレントに続くように後の四人もまた深く頭を下げる。しんとした静寂に包まれた辺りにはうららかでやわらかな木漏れ日が降り注ぐ。

 新たなる生命の基となる種を宿しているであろう実の訪れを焦がれる人々が彼らの帰還を待ちわびている。言葉にならない切実な想いと重圧が一行の胸中を巡る。

 次に露神が言葉を発する時、それがこの旅の結末の全てとなる。


「――わかりました、新しい樹を、あなた方に授けましょう。新たな命を焦がれていた人々のこの悲しみは私が思うよりもはるかに重く痛みを伴うのでしょう。拒む理由などひとつもありません」

「露神様! ああ……ありがとうございます!」

「ただ……ひとつ、樹をあなた方に授けるにあたり、条件があるのです。それは人や場合によっては死に近いものかもしれません。どんな希望も埋め合わせることの出来ない悲しみを抱え込むことになるかもしれません。それでも、あなたは樹を望みますか?」


 露神の表情が躊躇いと悲しみを入り混ぜたような色を滲ませてテレントに問う。

 慈悲の化身とも言われる麒麟でもある露神のそのような表情から、差し出される条件が容易いものとは言い難いことが窺えた。まさに、先日丙午に向かう宿でフリトが占った結果の通りだ。

 手放すことが容易くないであろうもの引換えに拓ける未来。その景色の中に自身の姿を思い描くことが、テレントには出来なかった。

 しかしこれは、自分に課せられた責務であり、自ら望んで踏み込んだ路である――テレントは伏せていた顔を上げ、露神の方をまっすぐに見据え、凛とした声で述べた。


「――構いません。すべて覚悟の上で旅をしてまいりました。私の持つすべてを引き換えに新たな樹を賜れると言うのであれば、それは本望でありますから」



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