第28話 道先案内人からの忠告
真朱海を臨むように拓かれた河口の小さな港町が丙午だ。魚が年間を通して多く獲れ、一級品の干物などは明卯の街でも多く売られている。
潮の香りが漂う狭い通りを、一行を乗せた馬車が行く。目指すはこの街唯一の杏林の家だ。
数日前グドがここより手前の街の屋台で得てきた話によると、丙午には黄来禽の樹は一か所にしかなく、それは唯一の杏林の家が所有していると言う。その地域を統治する者や寺院、一般的に人徳者と称される者の家が称することが多いものであるから、杏林の家に在っても何の不思議はない。
「杏林ってことは、メルと同じ属性ってこと?」
「さあなぁ……杏林が必ずしも俺と同じ属性の精霊の血が流れてるとは限らない。治癒能力は植物系統以外にも、光にだって水にだってある。ただ植物がその中で飛びぬけて能力が高いだけの話だ」
蒼く晴れ渡る夏空を馬車の幌の隙間から見上げながらグドが問うと、メルが紫煙を吐きながら答える。
メルの言葉にグドが頷きかけた時、「……さりげなく今、自慢したよな、メル」と、テレントがぽつりと呟いた。
「してねーよ」
「したよ、俺の方が上だって」
「してねーって。事実を述べたまでだ、俺は」
「だからそれがしてるんだって」
テレントが苦笑気味返すと、流石にメルも返す言葉がないのか伐が悪そうに苦く笑う。
煌めく水面に眼を細めながら手綱を操っていたザングから、前方に塀越しに青く茂る樹を持つ屋敷のようなものが見えると声がかかる。
テレントが荷台の中から顔を出し、ザングが指す方向に目を向ける。立ち並ぶ建物と塀の向うに見える青く茂る樹の影は、確かにかつて自分の屋敷にもあったものとよく似ていた。おそらく、あの樹のある屋敷が目指す杏林がいる家なのだろう。
いよいよ旅の肝要な場面が迫って来ている……ガラガラと響く車輪の音に煽られるようにテレントの胸中がざわめく。
この旅の鍵を握ると思われる人物と逢い、そこで何が判るのだろうか。露島への道程や樹を得るための条件を知る事は出来るのか、そして自分は本当に黄来禽の樹を手にすることができるのだろうか……次々と浮かぶ不安と疑問にテレントの顔が強張っていく。
ふと口を噤み黙りこんだテレントの肩を、ぽん、と背後から叩かれた
振り返ると、困ったように苦笑した彼の腹心がいた。幼い頃から、彼が小さく大きく悩み塞ぎこみかけた時に見せてきた表情に胸がすっと楽になっていく。
馬車はいよいよ件の屋敷に近づき、その度に車内の緊張の色合いがゆっくりと濃くなっていくのだった。
杏林との面会はテレントと、その従者であるメルのみ受ける事となった。二人こそが今回の旅において主要な人物だからだ。馬車と荷の番を兼ねて屋敷の前の通りの脇に停車をし、残る三人は二人の戻りを待つ他になかった。
「――んー、まあ、話はだいたい判ったワ、あんたらがここに来たっていう理由はな」
板張りの床に藺草を織って作られた敷物が敷かれただけの座面に正座をしながら、テレントは件の杏林に旅に出ることになった経緯と目的を説明し終えると、二人と向き合っている四十絡みの男は銀髪混じりの赤茶髪を乱暴に掻きあげてそう返してきた。
男の名はキヒム。ちいさなこの街で唯一の杏林と黄来禽の授幸使の役割を兼ねている人物だ。
キヒムの表情は俯いていてはっきり窺えないものの、すっきりと晴れやかでないことは確かだ。胡坐をかいた脚の上に頬杖をつくようにして口元に手を宛てがい、ちらりと何か物言いたげにこちらを上目づかいで見やる。そして、また何か考えるように俯く、を繰り返している。
露島への道程などを知るために訪ねていた旨を告げれば、何らかの手がかりが得られると思っていたテレントとメルにとって、彼の考え込むような態度は想定外であった。
自分たちの言葉の何がそんなに彼の頭を抱えさせているのかが全く見当がつかないため、キヒムの口から新たに言葉を紡がれるのを待つ以外、余計な言葉をこちらから吐かない方が賢明だと思われた。そのため両者の間では暫しの間重たい沈黙が漂っている。
長い沈黙に耐えかねたように口を開いたのは、キヒムでも、先程今回の旅の経緯などを説明したメルでもなかった。
もともと気の急く性質と言う事もあるのだろうが、目的地である露島を目前としながらも辿り着く手立てがなく、現状があまりに牧歌的に感じられて彼の追い詰められた胸中を逆なでしたのか、焦燥感に駆られ勇み足を踏みかねないとメルが戒める間もなく、テレントは口を開いていた。
「あの、そんなに、露島へ渡りたいと言うのは、無謀なんですか? 失った黄来禽の樹を賜りに行きたいって思うことは……」
「……簡単に言っちまうと、そうなるな。俺はな、ここで代々親の、そのまた親の、ずーっと昔から樹の番人をしてきたんだ。まあ要するに、あんたらのように新しい樹を求めて島に渡りたがる奴らを見極めることを務めとしてるってワケだ」
「見極め? それって、島に渡るには限られた人物しか渡れないってことですか?」
「そうであるけども……そうでないと、言うのかな。黄来禽の樹は島に渡って露神に希えば誰もが得ることができる。命は誰の手にも平等にあるべきとされているし、なんでも樹を護る露神は仁の生き物だって言うからな、わざわざ
黄来禽の原木を護る露神である麒麟は仁の生き物とされている。その姿形は鹿に似て大きく、顔は龍に似て、牛の尾と馬の
性質は慈愛に溢れ、額に生える角でさえ肉に包まれていかなる生き物も傷つけないようになっている程だという。
そんな護り人の前に、遠路はるばる黄来禽を求めてやってきたなどと涙ながらに語る人物が現れてしまえば、語られる言葉のままに樹を手渡してしまう可能性がなくはない。眼前に苦しみを訴えるものがあれば、譬えその真の目的が人々を思ってのものでなかったとしても、麒麟は樹を与えてしまうだろう。
それに、不届き者がいて神獣である麒麟を騙し捕えようなどと企てている者が皆無であるとも言いきれない。
いくら麒麟の周囲には常に警護も兼ねて仙女達が付いているとは言え、相手が屈強な男が複数人であった場合に太刀打ちが出来るとは考えにくい。
そういった様々な理由や可能性を考慮した上で、キヒムのような島と樹の番人のような務めを持つものが必要なのだ。
それを差し引いても、何故自分達が島に渡ることやそのための手段の教授を願うことに渋い顔をされるのかが、テレントは腑に落ちない。自分達が心から新たな樹を必要とする理由はキヒムにも十二分に伝わっている筈で、だからこそ彼のその渋る態度が解せないのだ。
改めてテレントが問うような言葉を口にすると、キヒムは赤茶の髪を掻きあげながら溜息を吐き、それに答える。
「じゃあ聞くがな、あんた、家の樹は子を授かることが出来なかった者が火を放ったから失ったんだって言ったよな?」
「ええ、はい……火を放ったのは女で、何年通い続けても子の種の入った実を得ることが出来なかった、と……だから、火を……」
「ひとりの積年の恨みを晴らすために樹が失われた。樹は集落の宝であり、未来だ。失うことはそこの死を意味する」
「だから、俺はこうして新しい樹を賜ろうと思っ……」
「その新しく賜った樹を、再び同じような目に遭わせない、失わないって言いきれるのかぃ? 樹に生る実の中に子の種が必ず仕込まれているとは限らない。それを承知の上でもこの有様だ。種に巡り合わず子のない者などこの世にいくらでもいる。それでもこうして逆恨みをして火を放つ。そんな処に再び樹を与えてもいいと思うか? 同じことを繰り返さない、そう言い切れないのに?」
命は誰の手の中にも平等にあるのと同じように、誰の手の中にもない、つまり、誰のものでもない。黄来禽の実を得たところで必ずしも子を授かれるとは限らないのと同じように。
新たに賜る事が出来た樹を、また同じような災難で失う恐れがないと断言できる根拠などテレントらの手中にはない。様々な策を講じて決してそうはさせないと胸を張れないのは、そう思い込んでいる内にあっさりと失った経緯による現状がここにあるからだ。
護ると口約束を交わすのは容易いが、実際にそういった場面に遭遇した際にも果たされるか不確実である。それも、そう易々と得ることのできない生命の種の生る樹に対して。
麒麟は仁の生き物であるから、彼らの話を聞いて樹を賜らないということは考え難い。賜った以上は樹を所持する家のものとしてのテレントらの責務はいよいよ重大となる。
一度失っているのだからその重責の程は計り知れず、過ちは二度と許されない。その重大さを承知の上で島へ渡る事を望むのかと、キヒムは問うているのだろう。
言葉を受けて、テレントが開きかけていた口を噤んで噛みしめ、膝に置いた拳を握りしめながら僅かに俯いたかのように見えた。返す言葉を探しているのか、それとも、キヒムの言葉にそれすらも打ち砕かれてしまったのか。
従者として、主人であるテレントの傍らにただ付き従っているだけのメルは、黙したままのテレントの様子が気がかりでならない。
しかしここで自分が口を挟み助け船を出すわけにはいかない。そんな出過ぎた真似はただ徒に主人の尊厳を傷つけるだけであり、そのような愚かなことなど彼らの間には存在してはならないのだ。互いを尊重し合い、信頼し合っているからこそ、メルはテレントの言葉を待つ他なかった。
「――確かにまた、樹を失うかもしれません。絶対と言いきれる策などこの世にはないから。でも俺は樹を賜りに島へ渡らないといけない。樹を持ちかえることが俺の務めであって、失うことに怖気づいてすごすごと帰ってしまうことで、俺の街で新たな命を待ち受ける人たちの未来を奪うことまでは出来ないから。お願いします、どうか、俺に露島への渡り方を教えてください! この身を賭して樹を護ることを誓いますから、どうか……」
床の上に手を付き、額を擦りつけるようにしてテレントが頭を下げてそうキヒムに乞うた。テレントが取った唐突な行動にメルも慌てて続く。蝉時雨を空き破るように発せられた声は、真夏の濃い影に沈む室内によく響く。
じりじりと、擦れ合うテレントの前髪と床の擦れ合う音が微かに聞こえる沈黙が訪れて程なくして、「……まあ、いいから顔、あげてくれよ」と、声を掛けられ、言葉に従ってゆっくりとテレントとメルが顔をあげると、苦く微笑むキヒムの姿があった。
困り果てているような、呆れているような表情の意味を無言のまま二人が探っていると、「――今日の宵口にまたここに来るといい」とだけ言って、キヒムは乳鉢や薬草の本などが山積みされている文机の方に向いてしまった。
「宵口って……その、今夜って満月と干潮が重なるんですよね? それって……」
「そうでないなら何だ?」
「それじゃあ、あの、俺ら、露島に……」
「一から言わなくても判るだろ、あんたの務めを考えるならな」
背を向けたままではあったが、キヒムの表情が先程よりもずっと穏やかになっていることを二人は感じながら、再び床に額を擦りつけるようにして手をつき、そして何度も彼に礼を述べる。
キヒムは二人の言葉を照れくさそうに、おかしそうに聞きながら、「いいから、忘れずに来いよ」と、だけ呟いた。
部屋に入った時よりも陽が傾き始めているのか、蝉時雨に日暮らしの声が混じり始めている。
ゆるく生温かな海風が、ようやく得た旅の要を胸中に収めながら部屋を後にする二人の頬を撫でていく。
思っていた以上に長く正座をし続けていたのか、立ち上がる時には足の感覚がなくなっていた。
日頃稽古でし慣れているはずの姿勢で足が痺れるなど随分と久しくなかったことに、二人は自分達がいかに緊張をして臨んでいたかを思い知るのだった。
ほっと安堵の息を吐きたい気もしていたが、この先がいよいよ旅の要となるのだ。
息つく間もなく迫ってくる自分たちの務めを無事に果たすため、ただ短く息を吐いて空を仰ぐ。抜けるような青に夏の夕暮れの黄金色が滲んでいる。茜色の蜻蛉が何匹も飛び交っていく。
「……あー、腹減ったなぁ」
空を見上げたままぽつりとテレントが呟いた言葉に、屋敷の出入り口まで案内をしてくれているキヒムの弟子の少年がおかしそうにくすりと笑う。そして、この近くに美味い食堂があることを教えてくれた。
その時がいよいよ眼前に迫っている。島に渡る方法をとりあえずは得て安堵している心と共にあるのは、その先に待ち受けているものへの不安であった。いつもと変わりなくにこにこと微笑みながら歩くテレントであったが、それは色味をこうした風景とそばを歩くメルと顔を見合わせるたびに増していく。
自分はただ、課せられた務めに従っていくだけに過ぎない……譬え、行きつく先が最期の場所になってしまうことがあるとしても。
「テレント、」
「うんー?」
「メシ食いに行くのはいいけど、馬鹿みたいに食うなよ? 折角島に渡れるんだからな、食い過ぎて渡れないとかなったらたまらないからな」
わかっているよ、と答えるようにテレントが笑うと、メルもまた苦笑する。
――今宵ですべてが決まる。交わす眼差しに滲む不安をひた隠すように、二人は並んで歩いて行く。
日暮らしの鳴く声を浴びながら屋敷の門をくぐると、待ちわびた顔のグド達が出迎えてくれた。労うように差し出された薄荷水入りの竹筒を受け取り、ひと口含む。ひんやりとした味が疲れきった身体に沁みる。
胸を透く様に冷える後味を感じながら、テレントとメルは屋敷で交わした言葉のいくつかをグド達に説明し始めた。
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