第26話 危機の回避と誓いの言葉

 何事かとテレントが眼を開けると同時に、闇夜の中に甲高く不気味な悲鳴が響き渡る。

 叫び声が闇の中にこだまするたびに先程から感じる熱気が火の欠片と共に周囲に飛び散り、火が高く上がる一帯が昼のように明るく照らされている。

 事態がすぐに呑みこめず呆然としているテレントの眼に映っていたのは、長く垂らしていた尾から赤々と燃える火をあげ、やがてそれが背後から全身へと燃え広がって火達磨になりつつある鬼申の姿だ。

 炎に包まれる熱さと身を焼かれる痛みに断末魔の叫びをあげながらのた打ち回る鬼申目がけ、更に追い打ちを掛けるように漆黒の矢が数本続けざまに貫かれていく。

 見憶えのあるそれらを目にした時、ようやくテレントは自身が助かったのだと知ることが出来た。月明かりの許でも、正確に獲物を射抜くことのできる弓術の腕と鋼の矢を持つ人物は、彼が知り得る限りひとりしかいないからだ。

 そうなると、鬼申を焼いた火玉を放ったのが誰であるのかもおのずと見当がついてくる。ああ、助かったんだ……我が身の安全を確信した瞬間、無意識にいつの間にか止めていた呼吸が戻り始め、ゆるゆるとその場にへたりこんでしまった。

 矢を貫かれ、やがて飛び回る事も叫びまわる事もままならなくなり、鬼申がただの炎の塊へと化していったのを待っていたかのように、テレントの座り込む樹の頭上や傍らの樹の上から人影が四つ飛び出してきた。

 影の内のひとつは、地に降り立ってすぐに燃え尽きた鬼申の亡骸の傍らに座りこみ、そして透き通るような声で言いしれない言葉を紡ぐ様に歌い始めた。

 ――弔いの儀だ。ぼんやりとテレントがその様子を眺めていると、彼のすぐ傍らから声を掛けられた。振り向くと、青ざめた表情のザングとグド、そしてメルが彼を見つめている。


「無事で何よりです。怪我はありませんか、テレント」

「……う、ん。大事ないよ」


追い込まれていた状況に置かれて自分と鬼申以外の存在を今のいままで察知できなかったテレントは、急展開した事態を把握できず、無事を確認するように掛けられてきた言葉にぼんやりと頷くだけだ。剣士としての自尊心を取り繕うこともままならない様子だ。


「しかし……よくあれが偽物だと判りましたね。鬼申の狡猾さは物によっては見破る事が非常に難しいと言いますから」

「いや……なんだ、反対押し切って家を飛び出したっつってるのに、供を連れて来たとかっておかしいだろ? 気付いたのはそこかな。あとは勘だよ。でもまさか瞳の色も声色も同じとはな……」

「なるほどねー。テレントが旨いこと相手をこっちに引き寄せてくれたのは助かったよ。暗がりからじゃ距離がなかなか掴めなくってさー。仕留めるの遅くなってごめんね」


言葉尻から推測するにどうやら彼らはテレントがミイワの姿に化けた鬼申と話し込んでいる間に、今しがた降りてきた樹の辺りに身を潜めて攻撃の機を窺っていたらしい。

いつ頃から彼らがテレントの後をつけて来ていたのかは明言しなかったが、恐らく彼が部屋を出て暫くの後にメルから声を掛けられたのだろうことは彼にも察しはつく。

 曖昧にそれらに頷きながら、テレントはちらりと傍らに佇む影に眼をやると、月明かりと樹の影の狭間にゆれる若草色の眼がいつになく怒りに満ちた色をしていた。


「……ったく、この大馬鹿者が。だいたいおまえは自分を過信し過ぎてんだよ、いつも」

「……んなことねぇよ」

「この旅に出たことだってそうだ。どれだけ親方様からの信頼が嬉しくても、おまえ自身の剣の腕が立とうとも、そんなんじゃただの大馬鹿者だ。やっぱりおまえは何も解ってない……どれだけ自分が未熟か」

「メル、ちょっと言い過ぎじゃ……」

「何もいまここで言い合うことじゃないじゃん、二人ともさあ……」


 闇の中低く交わされる言葉はどれも重く棘だらけで、今しがた九死に一生を得たばかりの身に差し向けるにはあまりに酷な言葉の数々に、二人の間にいたザングとグド、弔いを終えてこちらに引き返してきたフリトも加わって両者を交互に制する。

 しかしそう簡単に二人の感情が治まる筈もなく、旅の始まりから鬱積していた互いへの想いがいまこの機にふつふつと温度をあげて吹き出さんばかりだった。

 睨みつけられるまま言葉を受けていたテレントが、ぎゅっと眉根をあげてメルの方を睨みつける。


「わかってないのは、どっちだよ。そんな下らないこと言うために、メルは俺を助けたのか? わざわざ皆を使って退治させて、そんで説教垂れるために? いつもみたく俺を大馬鹿者だって罵るために?」

「テレント、ちょっと落ち着きなよ」

「助けてくれたことは感謝するよ。でもな、ひとつ言わせてもらう。俺は俺の意思でここまで来ただけだ。俺が家のために出来ることがあればそれに従う、差し出せるものは差し出す……そう生きてくしかないからな。俺が、後嗣と期待されながらもあまりに出来の悪い俺があの家で生きていくためには、それしかないんだ」

「…………」

「なのに、なんで今更そんな下らないありふれた言葉で俺を止める? 俺のそういう想いは、メルが一番解ってくれてんじゃなかったのか? ――俺は行きたいんだ、露島に! これは俺の意思だ! 譬えただ家のために利用されてるって解りきっていても、俺が決めたんだ、行くんだって!」


 怒りにも似た感情を抑えながら振り絞る声は微かに震え、感情を向ける先に在る彼の名を口にした時、テレントの眼元は溢れるそれに潤んでいた。

 物心ついた時から骨身に叩きこまれた家の教えを抗う術など、元よりテレントの手中にはない。

 自分よりも優秀である弟に劣等感を覚えつつも、生まれながらに与えられてしまった務めを全うする他に、彼があの家で生き続けていく路は用意すらされていなかった。

 歳を重ねるごとに己の中に在る自分が心から望む路と、目の前にそびえる現実との隔たりは広がるばかりで、そこに追い打ちを掛けるように後嗣の資格のない弟が頭目としての頭角を現し始めると、自分に注がれる周囲の眼差しは期待の削がれた落胆の色を濃くするばかりだ。

 用意された居場所はあっても、そこに留まる事自体に違和感を覚える彼にとって唯一の理解者が腹心であるメルだった。自分の存在意義を自問し苦悶し続けるテレントに寄り添い支え続けてきた掛け替えのない存在だと信じていたのだ。

そのメルが、テレントの想いを無碍にするような言葉を差し向けてきたことに、テレントは酷く裏切られた思いがしてならなかったのだ。

 今回の旅は窮地に立たされた家を救えるかもしれない、テレントに与えられた一世一代の、父親をはじめとする屋敷の者達に彼の存在意義を知らしめることのできる好機だとテレントは考えていた。

 譬え無事に生還できる皆無である可能性が高くとも、テレントが屋敷のために忠義を尽くした形跡だけは彼がここに生きてきた証しとして確実に刻まれることにはなるのだ。

 しかしそれを腹心のメルに否定され奪われることは、彼にとって存在を否定される、身を裂かれる以上に痛みと苦痛を伴う。

 感情の矛先を向けられ、怒りのままに睨みつけられているメルは、表情ひとつ換えることなく投げつけられる言葉を聞いていた。

 テレントの言葉が終わるまで反論を挟むことなく、硬く強張ったままの表情で聞き入りながらもその表情はまるでテレントの言葉に凍りついているようにも見えた。

 やがてテレントの言葉が途切れ、溢れ出る感情を抑えきれずその場に崩れて震えている。彼の言葉に聞き入っていた誰もが、月明かりの下で蹲る彼の姿を見つめていた。

 声を押し殺し嗚咽する傍らにメルはしゃがみ込み、肩にそっと手を掛けた。その表情は言いしれない痛みに耐えるかのように苦痛に歪んでいる。


「テレント、おまえは常にナオ様に劣等感を覚えていたよな。俺は、単純にそれを翻して見返してやりたいがための見栄でこの旅を引き受けてるのかと思っていた。あんなに魅かれ合っていたミイワ様との婚儀の契りを破棄してまですることなのか、ってな。だから、そんなつまらない見栄なんかでみすみす死なせるようなことになってたまるもんかって……。本当に、おまえの言うとおりだな、テレント。俺は、おまえの傍にいながら、おまえの何も解ってやれていなかったんだな」

「……メル」


 メルの言葉にテレントが垂れていた頭をあげ、月明かりに泣き濡れた顔が照らし出される。濡れた頬をメルはそっと指先で拭い、ちいさく苦笑する。

 そしてさっと地面に正座をし、深く頭を垂れ、テレントの足許に跪いたままの姿勢で、メルは凛とした声でこう述べた。


「――我が身を真の主、テレントに、我が心身を畢生の限り捧ぐことをここに契る」

「……聴納ちょうのう、する」


 叩頭こうとうするメルに向けて、濡れた頬を袖口で乱暴に拭いながらテレントは呟く。

 突如行われた、武道家の家に代々仕える精霊が、己の主として相手を名実ともに正式に決めた際に行われる独特の儀式を前に、グドら三人は状況を呑みこめずにただそれを見守っていた。

 メルの叩頭と契りを受け入れたテレントでさえも、驚きを隠せない様子であった。本来ならばそれは家督を継ぐ際、屋敷内で内々に執り行われる厳格な儀式であるからだ。

 儀式は人間と精霊の間に交わされる特殊な契約であるため、それを聴納するということは天に誓うも等しい。

 譬え後嗣としての将来が暗黙のうちに約束されているように思われていても、実際にその者が家督を継ぐことが出来るのかは当代の主の心や取り巻く状況次第でいかようにも変わりうる。

 契りを結べば、両者は一心同体の命運を辿る事となる。そういった神聖なる行為であるが故、易々と行えるものではないことから、いかにメルの決意が固いかが窺える。そしてテレントにもそれを受けるだけの心根が備わっていることが前提であるのは言うまでもない。

 確固たる互いの想いの上に交わした契りが成立し、ゆっくりとメルが顔をあげる。月下に晒された眼元には薄らと涙が浮かんでいた。


「おまえが、そこまで言うんなら、俺は、従ってついてくまでだ。俺の唯一無二の主人はおまえなんだから」


 困ったように苦笑する顔を目の当たりにした瞬間、関を切ったようにテレントが声をあげて泣いた。

 胸が潰れそうになるほどに重苦しい、己の存在の意義を問い続けていた日々を分ちあい、理解してもらえたからだろうか……二人の姿を見つめる三人はそれぞれの胸中にそんな想いが過った。

 子どものように泣きじゃくる彼の肩を抱き、「泣くなよ、情けない主様だな」と、メルは呆れるように言う。

 やわらかく綻ぶその頬にもまた雫が伝っていたが、彼はそれを拭う事もなく、鬱積した想いを吐くように泣く主人の背を撫でてやるのだった。



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