第25話 思いがけない追跡者との遭遇


「っはー……ちょっと飲み過ぎたかな」


 灯りを消し、床に就いてからも暫くの間テレントは寝付くことができなかった。

 枕が変わったからだと言うような繊細な言い訳ではなく、単純に夕餉ゆうげに出された酒と料理を多分に取ってしまって胸がやけているというだけだ。

 腹ごなしと厠に行くためにそっと起き上り、同室のメルの眠りを妨げないように足音を忍ばせて部屋を出てきたのだ。

 寝泊りしている建物から少し離れた場所に在るかわやへ行って用を済ませ、薄暗い雑木林を横に見ながらほの暗い道を行く。すぐ傍の藪からは夏の夜に鳴く虫の音が微かに聞こえる。

 月明かりの下、テレントは厠からでてすぐに部屋に戻るでもなくぶらぶらと歩いているのは、ただの腹ごなしだけが目的ではなかったからだ。

 今回の旅が始まってからずっと、テレントはメルとの間に妙なしこりの様なものがあるのを感じている。

 口を聞かないとか、余所余所しい態度を取るとか、眼に見えるような素振りがないため余計に勘ぐってしまう。こちらが話しかければ応えるし、笑いもする。なのに、テレントはメルの表情や言葉尻に薄く冷たいものを感じてしまうのだ。

 はじめは、ただ出発前にひと悶着あったからで、それも日が経てば収まるだろうとテレントは汲んでいた。二人は幼い頃から大なり小なり諍いをよくしていて、その終焉を告げるのはたいてい、なし崩しに日常の中に紛れていく時の流れによるものだったからだ。

 一晩眠れば昨日のことなどさっぱり忘れている、と、メルから揶揄やゆされる事もあるテレントであったが、今回はそう単純に解れてもくれない事態の複雑さに頭を悩ませている。メルの機嫌を損ねている要因がはっきりと判らないことがその大きな理由だ。

 おまえは何もわかってはいない――父に黄来禽の樹を給わりに行けと命じられた晩、メルがテレントに叩きつけるように述べた言葉が彼の中で木霊し、響く言葉にテレントは返すようにひとり呟く。


「わかってないも何も……俺が行く以外、選択肢はねぇじゃん、もう……」


 家の中で絶対的な存在である父から直々に命じられた事柄が、譬え命の危険を伴うものであろうとも、その為にこれまで築きあげてきたすべてが打ち壊されようとも、テレントは受け入れる以外に考えはない。そう育て上げられてきたのだから、当然の事だ。疑問を持つことさえない。

 テレント自身は、自分が家のために生かされていることを解ってはいた。そしてそれが当然であるとも。

 自分の父や祖父、その前の先祖たちが代々そうであったように、自分はこの家を支える一本の柱や繋ぎ目でしかないことを彼なりに理解しているつもりであった。そしてそれは、自分に付き従うメルにおいても同様なのだろう、と。

 わからないのは、寧ろメルの方であるとテレントは思っている。当然のように父親の命に従ったテレントを、メルは何も解っていないと言い放ったのだ。

 自分と同じように共に育ってきておきながら、メルはテレントが置かれている立場を理解してくれてはいなかったからだ。

 唯一無二の腹心だと信じて疑わなかった傍らの存在の意義が、不意に揺らいでいることにテレントは動揺をしているのだ。共有してきた記憶や、感情、思考もすべて分かち合えていると思い込んでいたのが自分だけなのではない、かと。


(わかってないのはメルの方じゃないか……俺の傍にずーっと居ながら、俺がこうならざるを得ないんだってのとか、こうなってしまう事とか……メルが一番知ってるんじゃなかったのかよ……)


 久方ぶりに煽った杯の酔いが回っているのか、行く先も特に決めずに薄暗い闇からどんどんと藪の奥へとテレントは進んでいく。

 建物から漏れ出ていたか細い明かりの影さえ消えてしまうような奥に歩を進めていても、テレントは構うことなく進み続けていた。まるで答えの出ない疑問に導かれるように、躊躇いもなく。

 思案に夢中になっている彼の眼にはただ荒い道を歩いているだけにしか思えていないのだろうが、その実彼の周りには深い闇が垂れこめるように取り巻いていた。

 幸い今宵は月が明るいので足下が不明瞭になる事はないようだったが、それでも就寝前の軽装の人間がうろつけるほどに闇夜の森は甘くない。幾らテレントが剣の名士であっても、その事実は揺るがないのだ。



 どれぐらい歩き続けただろうか。ふと、テレントが我に返った場所は乱立する木々がぽっかりと抜けたような小さな空き地だった。降り注ぐ月の明るさが彼の足を止め、ようやくむやみやたらな歩みを止めた。

 そしてもうひとつ、彼の歩みを止めたものがある。テレントは歩みを止めたその場に立ち止まり、ぐるりと周囲を見渡すようにそれを探し、やがて自分の背後辺りに向き直りながらこう言った。


「――誰だ、そこにいるのは」


 放つ声色に緊張が滲む。声を発しながらそっと帯刀の柄に手を掛け、相手の出方を窺う。

 月明かりの照らす白い道と雑木林の成す黒い影の狭間を睨み続けて暫くの時が流れる。

 随分と長く感じた時間の終わりに、藪を揺らしながら現れたものは、あまりに思いがけないものであった。


「ミイワ、おまえ! なんでこんなところに……」


 闇の中から溶け出すように、するりと微かな衣擦れの音と簪のものと思われる儚い金属音と共にテレントの前に現れたのは、赤みを帯びた銅色の美しい髪の若い女・ミイワだった。彼女は明卯の家で別れを告げたはずだ。

 月明かりの下に晒される青磁色の淡い瞳が、眩しそうに細められながら彼を見つめ、微笑む。


「そんな恐い顔をされないでくださいな、テレント様……そりゃあ、いまのあたしは叱られて当然のことをしていますけれども」


 上品な紗織しゃおりの衣擦れと苦笑いの声が重なって夜に響く。月下に揺れるミイワの長い髪色は一段と美しく見える。

 しかし勿論、テレントの眼にそんなものが止まるわけがない。思いもよらない出来事にそれまで考え込んでいた事が掻き消されてしまった。


「解っているのならなぜこんな処にいるんだ! おまえ、ひとりなのか? 供はいないのか?」

「いっぺんにそう、仰らないでください……。供はみなこの奥の川の傍で馬車を停めて休んでおります。……無理を承知でここまで来たのです、テレント様」

「おまえ……なんでまたこんな馬鹿なことを……」

「ええ、あたしは馬鹿でしょうとも。父にも母にもそう言われましたわ」

「……家を、飛び出してきたというのか?」

「一目会いたさにここまで来た愚かな女だとお笑いください……それほどまでにあなたに焦がれているのですから」


 青磁色の瞳が、気がつけば触れられるほどの距離に在った。蒼い眼元は憂いと悲しみ、そしてテレントに焦がれて濡れて深い色合いになり、揺れる眼元からは音もなく雫が幾筋か零れて頬を伝っていく。

 月明かりに照らされる彼女の姿は哀しくも美しく、テレントが次に継ぐべき言葉を奪われる。

 数ヶ月前の月夜に抱きすくめた時と同じぬくもりが彼の腕の中にあり、子どものように別れを拒んで泣き濡れていた瞳の色は今でも彼の脳裏に焼きついて鈍い痛みを覚えさせる。

 久方ぶりに触れたそれは、彼に甘く切ない痛みを蘇らせた。

 そっとテレントの許に寄り添うように身を寄せてきたミイワの肩を、そっとテレントは捕えた。細く華奢な線が微かに震えている。

 テレントはそれを認めながら困り果てたように小さく溜息を吐き、こう述べた。


「――惜しいなあ……」

「え? 惜しい、とはどういう事です?」

「よくまあ短時間でここまで調べ上げたもんだなあ、ってな……あまりに見事だから、うっかり信じ込みそうになったよ」


 テレントの言葉の意味がわからないと言いたげに眼を見開いて驚くミイワの身体を、そっとテレントは自身の許から離した。やわらかくにこやかに微笑みながら徐々に距離を置いていく彼に、ミイワは困惑の色を隠せずにうろたえる。


「テレント様? 何を仰って……」


困惑を悲しみに変えた声色を乗せた口元が開きかけた時、それまで微笑んでいたテレントの顔が冷酷なほど冷たいものへと豹変する。


「その薄汚い口で俺の名を呼ぶな。おまえはミイワじゃない」

「そんな! 何故そんなひどいことを!」

「失せろ、化け物。おまえからは腐った肉の臭いしかしねぇんだよ!」


 テレントがそう言い放つが早いか、地を蹴って後ろへ下がり距離を取った。

 飛び退きながらすらりと抜いた刃に、ミイワの顔が青ざめていく……かのように見えたその瞬間、白く美しかった肌は赤色の毛を生やした獣のそれに、テレントの名を鈴のような声で紡いでいた口元はたちまちに耳まで裂けた恐ろしいものに変っていった。

 ひわ色の裙を纏っていた下肢もまた赤い毛に覆われ、その背後からは同色の長い尾が覗く。

 赤い毛並みのそれは、忌々しそうに纏っていた服地を剥ぎ取り長い尾を地面に叩きつけ、舌打ちをするような音を口元から吐いてテレントを睨みあげる。

 ――これが、鬼申きしん……思い描いていたものよりも、目の前に現れた魔獣は屈強な身体つきをしている。

 力は一般に知られる魔獣よりは劣り、人に近いというが所詮は闇の獣。いかる肩と口許に並ぶ牙と眼光の鋭さに柄を握る手に力がこもる。

 テレントはこれまでに一対一で実際にやり合うことが先の旅をはじめとして幾度もあったが、触れられるほど近くに敵を感じながらに剣を抜いて対峙したのは随分と久方ぶりだ。

 一瞬の隙さえ命取りとなりうる緊迫した事態に、身体中から汗が滲むのを感じる。

 にじりにじりと睨み合う事暫し。その沈黙を破ったのは美しいミイワの姿から赤毛の猿に姿を変えた鬼申の方だった。

 力強く地を蹴りあげてあっという間にテレントとの間合いを詰める。

 詰め寄りながら大きく振り上げていた腕を、テレント目がけて投げおろし、寸分早くテレントはそれを剣で受け止めて押し返す。押し返した勢いで更にまた後ろへと飛び退いて間合いを取る。

 横に跳び退こうにも、その間もなく再び鬼申が地を蹴ってテレントに近付いて腕を振りおろし、それをテレントが弾き返して後退する。

 そういったことを数回ほど繰り返した後、気がつけばテレントは明るく照らされていた広場からじりじりと樹の影で闇を成す森側へと追いやられていた。

 闇の中では圧倒的に純血種の人間であるテレントよりも、鬼申の方が有利であるのは言うまでもない。暗闇に眼が利くのは圧倒的に後者だからだ。

 不利な状況へ追い詰められていく戦況と、予想以上に速く迫ってくる鬼申の力の強さにテレントの顔に焦りの色が僅かに滲む。

 その隙を、鬼申は見逃さなかった。ぐいっと片手で剣をこれまでより力強く圧してきたかと思うと、空いた方の手で鬼申はテレントの喉笛を狙ってきたのだ。

 反射的にテレントはその手を払い除けることはできたものの、それにより均衡が崩れあっという間にすぐ後ろにそびえていた樹に押し付けられる格好となってしまった。

 しかも、分の悪いことに鬼申の攻撃を避けるために構えていた剣の刃がぐっと喉元に近づけられる。

 迫る刃を避けるために鬼申ごと押し戻すことも考えたが、そうするにはあまりに両者の間には距離がなく、また鬼申は徐々に圧す力を増していく。

 普段のテレントの剣の実力を持ってすれば、鬼申の一匹ぐらいこんなに苦戦を強いられることはないだろう。

 しかしいま状況は闇の属性の生き物の力が増す夏季。しかも相手はこの土地に明るく、人語を操るほどの知能の持ち主である。そしてテレント自身は旅の疲れと酒の酔いの残る決して万全とはいえない状態であることから、必ずしも彼が打ち勝つとは言い切れない。

 圧される刃がじわりとテレントの方へ近づく。あと幾ばくか圧されてしまえば、彼の喉元に一筋の朱が刻み込まれてしまうであろう。

 鬼申が月明かりを背負いながら薄く笑う。どれほどのテレントの情報を取得してここにいるのかは不明だが、彼が相当な剣の遣い手であることぐらいは見透かしているのだろう。

 そんな相手が思いがけず追いやられ、あれよあれよという間に自分に有利な戦況に陥ったことがおかしくて仕方ないのだろう。これだから、この弱くて愚かな生き物と弄ぶのは面白いのだ、と言いたげに。

 鬼申が笑う度に赤く耳まで裂けた口が僅かに開いて生臭い匂いを放つ。その悪臭がテレントの気力を大いに削いでいく。

顔を背けようにもそれすらままならない背水の陣に、テレントは一抹の覚悟を腹に決めるように一瞬眼をつぶった、その時だ。

ふわりと微かにきな臭さを覚えた瞬間、たちまちに前方のすぐ近くから熱い空気を感じた。



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