第24話 差し出された言葉と手を取るということは
雨期の終わりを惜しむような大雨で数日の足止めを食った後、一行は壬午の郷へ入った。
郷はこれまで立ち寄ったものより規模は幾分か小さい集落で、若干高床の構造になっている古い木造の住居が立ち並んでいる。
ザングの話によるとこの一帯は昔から雨が多く、また近くを流れる水路がすぐ溢れるためにそのような住居が多いのだと言う。
市の立つ広場を抜け、更に南へと下っていくと、ひとつの小さな家々の集まる場所に行きあたる。集落、というにはあまりに小規模なそこが、ザングが生まれ育った故郷だ。
一行はそこに立ち寄り、長旅の道中のしばしの休息を得ることにした。
初めて訪れた場所とは言え、通常宿屋で得るよりも気心の知れた仲間の家郷の地とあってか、心なしか伸ばされる手脚が伸び伸びとしているようだ。
到着したその晩、一行はザングの家族から手厚いもてなしを受けた。
この地域でよく作られていると言う料理と酒で囲まれた食卓はあたたかで、疲弊した彼らのそのやさしい気遣いが心に沁み入る。
郷の外れの湖で獲れた魚を塩焼きにした物を摘まみつつ地酒を飲み交わす彼らの、特にテレントの顔はここ数カ月の中で一番穏やかな顔をしてるように思えた。
「へえ、じゃあ、ウイ様も月が診れるんですか?」
食事が一通り済み、卓に空の皿や器が多く並び始めた頃、話題がザングの祖母・ウイの特技に及んだ。
ザングと同様、炎と氷の精霊を操る魔術を持っているのだが、それに加えて一種の占いのようなこともできるのだという。
少し酔いの回った機嫌の良い調子でテレントが訊ねると、「いいえ、月を見るという程大層なものではありませんよ。私のは老婆心で挟む小言のようなものですからねえ」と、ウイは苦笑しながら答える。
ウイの特技、それは向かい合った相手の背負うものを見透し、それに対する的確な対処の方法などをそれとなく伝えるというものだ。
月を診る、所謂占い、というよりもその相手を取り巻く気配を読み解いていくだけだと彼女は付け加えもした。一種の透視能力のようなものだろうか。
しかし実際、彼女の、「読み解き」は実によく当たった。
例えば長く続く家同士の争いの間に入って取り持って和解させたり、原因の判らない不調を訴える者のそれを探って解いてやったり。
時折、不意に郷に迷い込む魔獣の気配を微かに感じることもあるようで、周辺の者達に身の保全を呼び掛けたことなどもあったという。
「まだ、この子の父親が十にもならない頃、前の晩から何か生臭い匂いが鼻先から離れなくてね。何かおかしいと思っていたから、家と、隣近所の人たちに注意しとくようにとは言っておいたの。案の定、翌昼に裏の藪から大きな虎みたいな魔獣が出てきてね……幸い、近所の人が仕掛けておいた罠に掛ったのもあって大事には至らなかったんだけど――」
襲われたのは放し飼いしていた家畜の牛と鶏が数羽。畑も踏み荒らされたが、それ以上の被害も犠牲もなかった。
ウイの読み解きの信憑性をさらに裏付ける事となる出来事にはなったのは言うまでもないのだが、彼女はそれを決して生業としたり、ひけらかしたりするような真似はしなかった。
曲がり間違ってそのような奢った態度をとろうものなら、たちまちに自分の身に読み解くことで避けた災いが降りかかるだろうと考えていたからだ。
「人々を護る術だって判っているのに?」
「護る術だから、ですよ、テレント。あなたは素晴らしい剣の遣い手であると同時に、人の命を簡単に奪える術を持っている。同様に、読み解きは人の背負うものを指し示すことでその相手を如何様にも導くことができるのです。惑っている事を正しく導くためには自分の能力を過信し溺れないこと、だと私は思うのです」
「なるほど……確かに……」
ウイの言葉にテレントらは大きく同意するように頷いたが、僅かにフリトの気配が強張った気が、グドにはした。
言葉とウイの語る当時の状況が彼の過去と重なるからなのかとグドは思い巡らしたが、フリトの素振りが思い違いかという程の僅かな間であったため、特に気に留めずウイとの会話を続ける。
にこやかに緩やかに、明かりに包まれた夕餉は程なくして静かにお開きとなった。
「――ええと、ねえ、ちょっと、いいかしら?」
各々の席を立って寝屋となる別室に引き上げようとした時、ふとフリトがウイに呼びとめられた。
遠慮がちな、それでいてそっと静かに相手を自分の方に振り向かせるようなやわらかな口調に、椅子から立ち上がったばかりのフリトが振り向く。
相変わらず頭からすっぽりと黒い布が表情を覆い隠していて、その隙間からちらりと相手を窺い見る紅い瞳が光る。
「……なんでしょうか?」
元々の用心深さと懐疑心が露わになった声で返す彼に、ウイは小さく苦笑する。
ほんの瞬きほどの短い時間ではあったのだが、ウイの方から言いしれないあたたかな空気が漂ってきた。
これまで護身のあまりに触れようとする手や注がれる眼差しのすべてに裏があると思い込み続けてきていたフリトにとって、その空気は彼の虚を突くかのように包みこんでくるのを感じる。抗う気力すら吸い込んでいく眼差しの温みが彼の尖った心を撫でていく。
ウイに再び椅子に座るよう促されたフリトに、彼女は変わらぬ温かな眼差しを向けたまま、こう口を開いてきた。
「あなたに背負わされているものがあまりに大きくて重たいものだから、ついね……」
「えっ……?」
「随分と長く、背負わされ続けて……辛かったでしょうに……」
「……や、別に、俺は……」
「辛いなんて言葉で言えないほどよね、あなたが負うものは、きっと……いまここにいることに戸惑いがあるのも無理もないことだわ。だって、あなたが与えられたものは、あなたが背負っているものたちが欲していたものなんですから」
フリトはウイに自らの生い立ちなどを話した憶えもなかったし、ザングもそのような素振りも見せていなかった筈だ。もし仮にザングが話していたとすれば、話す前かその後に必ずそう告げてくれるだろうと思われる。少なくともこの家に到着してからの間はそのような事は確認していない。
それなのに、婉曲にとはいえ自分の背後を見透かすようなウイの口振りにフリトは驚いて目を見開いた。
反射的に否定の言葉が口を吐こうとしたが、できなかった。言葉と共に差し出された眼差しがあまりにあたたかでやさしく、懐疑で凝り固まった彼の心を瞬く間に包みこんでいたからだ。
まるで陽だまりの様な匂いのするそれは、彼の無意識下に押し潰されたままだった遠い記憶の欠片を揺さぶる。
懐かしさよりも濃密で、本能が無条件で欲するぬくもりの記憶がフリトの心を乱していく。その欠片が、音もなく彼の頬を伝い落ちていく。
「…………ッ」
「でも、あなたがいまここにいることは、償いではあっても、罰ではないのよ。悔やむなと言うのは無理なことかもしれない。だけど、ここに在るあなた自身を否定する事はないのよ」
「……け、ど……俺、がした、こと、は……」
「そうね……消えることのない悲しい事実であることは変わりないわ。だけど、あなたはあなたが出来得る務めをもう果たしてはいるのよ。だからね、フリト。消えない事実を悔やみ続けるよりも、与えられたものを全うすることがずっと理に適ってるんじゃないかしら?」
「そう、でしょうか……俺が、生き続けてくことって……」
「そうだと私は思うから、いまこうやって伝えているのよ。大丈夫、あなたは生きていくべきなのよ。他の誰もあなたのこれからを否定することなんてできないのだから。あの黄金色の髪の彼もきっとそう思っている筈よ」
名指しこそしなかったものの、彼女が言う彼は恐らくグドのことだ。グドが差し出しているやさしさを代弁するように語られる言葉に、フリトの眼元が熱く潤んで滲む。
背負う罪の重さと痛みで自分の足下すらよく見えなくなっていたフリトに差し伸べられた手を、何の疑いもなく取っても良いのか、彼は常に迷い続けていた。その手を取るということは、自らのしあわせを願い望む事と同意だと考えているからだ。
大罪人である自分にそうする資格や権利など、到底ふさわしくないと思えてならなかった。
望んでしまえば、そして手に入れてしまえば、再び失う恐怖に怯えることにもなる。差し出された手のぬくもりを知ってしまった以上、その想いは色味を増していく。
しかしウイの言葉に諭されて再び向き合った想いは、グドに再会した晩に見た時よりもはるかにやさしい色をしている気がしたのは、受け取るフリトの胸中がそれを求め始めていることに気付かされたからだろうか。
フリトは、いま初めて自分に語りかけるこの老女の偉大さを感じていた。
自分を追って村を飛び出してきた彼のことを口にしたウイの顔が一層やさしく綻び、そしてそっと卓の上に組まれていたフリトの指先に触れる。
たくさんの経験と歳月が刻み込まれた皺だらけの小さな浅黒い掌の上に、はたりと雫が零れ落ちる。
濡れた頬を拭う事も忘れて嗚咽するフリトに、そっとウイは囁く。
「彼の手を離さないようにね。あなたを最も必要としていて、そしてあなたを最も理解し支えてくれる人だから」
「……はい」
先の旅の終わりに自分を必要だと言われてからずっと、フリトがいままで胸の奥に抱き続けてきた鉛のように重たく苦しい感情が、ウイの言葉によってまるで足枷を外されたかのように軽くなっていく。
重ねていたウイの手がそっと濡れたフリトの頬を撫でるあたたかな皺だらけの掌の感触は、今ようやく自らの中に鬱積していた負の感情を吐露し始めた心にやさしく響いた。
フリトの様子が落ち付いたのは夕食が済んでから実に半刻程の時間が経った頃だった。
部屋の灯りに夜光虫がたかり始めていて、泣き腫らした眼を恥ずかしそうに布で隠しながら部屋を出ていくフリトの背を照らす。
寝泊りをする部屋まで続く回廊の土間に響く足音を聴き、淡く射し込む月明かりを浴びながらフリトが歩いていると、ふと、少し離れた前方に人の気配を感じた。
物影に潜むそれにじっと目を凝らすと、すっと闇から鮮やかな金色の髪が現れる。
先程ウイに告げられた言葉に、まだ気持ちの整理もままならぬ時に早々に顔を合わせることになるとは思っていなかったからか、フリトはグドの姿を認めた途端に足が止まってしまった。
「なかなか戻って来ないから、どうしたのかなって、思って。声掛けようかなって思ったんだけど……なんか話しこんでたから……」
暗がりで表情を詳しく窺い知ることはできないが、フリトが部屋を出てきてすぐの処で鉢合わせたと言う事は、恐らくグドもウイとの話を聞いていたのだろう。
グドの声や言葉はいつになく慎重さを多分に含んでいるようだ。
話を聞かれていた可能性がまったくないと言いきれないだけに、顔を合わせてしまったいま何を言うべきかがフリトの脳裏には浮かんでこない。
沈黙が夜気のようにしっとりとふたりの上に降りてきた時、先に口を開いたのは向かい合うグドだった。
「あのさ、フリト。……俺と、俺の村に帰ろう。すぐにじゃなくてもいい、でも、いつか、帰ろう。一緒に帰ろうよ、フリト」
「そんなの、いつになるかわかんないじゃんか」
「帰りたくなるまで、待つよ。フリトが俺と、俺の村に帰ってもいいって思うようになるまで、俺は待つよ」
「待つって……どうやって待つつもり? 生きてる間にそうなるかなんてわかんないのに!」
「どうやってって、傍にいるんだよ、フリトの」
「なっ……またなに言っ……!」
「俺の手を離すなって、言われたんでしょ? それは俺にとっても同じなんだよ、フリト。フリトがいるから、俺は生きてて嬉しいんだ。そういうの、フリトにも味わって欲しいんだ。……出来る事なら、俺の傍で」
夏の始まりの月明かりの下で、鮮やかに煌めく黄金色の髪の影でやわらかく笑う眼に見つめられている内に、フリトもまた同じように微笑んでいた。紅い眼元にじわりとまた涙を浮かべながら、彼はグドの言葉を受け入れるように頷く。
そっと掴まれた手に引き寄せられるようにフリトがグドの腕の中に納まり、そして暫くの間そのままふたりは抱き合う。月明かりだけが見つめる宵闇の逢瀬と誓いは、甘い色の光の中に溶けていった。
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