第19話 紅い眼の彼が生命の樹を巡る旅に出るということは


 午馬河を渡り、東の港町・丙辰へいしんに降り立つやいなや、報せを受けて屋敷のある明卯の甲辰こうしんより迎えに来ていたテレントの家からの使いの馬車に乗せられてこの屋敷に辿り着いてからと言うもの、フリトを取り巻くものは一変した。

 まずフリトはメルの客人として家に迎え入れられ、メルの一族の住まう建物の一室と、身の回りの世話をするリンレイという侍女を宛がわれた。

 つい数日前まで軒下で眠り、通りの隅で占いの座をひっそりと構え、闇の精霊の血を退く者を忌み嫌う眼差しを避けながらどうにかその日の糧を得るような暮らしをしていたのに……今では綿入りのやわらかな布団で眠り、雨風やその日の糧を得る心配は愚か、侍女まで宛がってもらえる変わりように戸惑いを隠せないのは当然のことであろう。

 それでなくとも、実際、テレントの家はフリトが今まで知る限りのどんな富豪と称される家々よりも広大な敷地と立派な屋敷、そしてその数さえ把握できないほどの使用人や弟子達を住まわせ従えている。

 その誰もがテレントと、彼にピタリと影のように寄り添うメルとすれ違う度に彼らに向けて丁寧に会釈をするのだ。

 テレントはそれに怖気づくこともなく極当たり前のこととして受ける。その、年若いながらも堂々たる振る舞いは、以前フリトが旅路の中で記憶していた姿からは想像もつかないほどかけ離れていた。背筋はすっと伸び、地を踏みしめる歩みは強く、眼差しは遠くを見据えるように静けさに満ちている。

 骨の髄にまでしみ込まされたのであろうテレントの後嗣としての立ち居振る舞いは、改めて彼の置かれた境遇と、己との違いにフリトは愕然とする。

 自分と彼らは何もかも違いすぎる――住む世界の違いを、ここに来てからいやというほど痛感させられる。


「――っと、これでよろしいでしょうか?」

「うん、悪いね、最後の最後まで手伝ってもらっちゃって」


 宿を同じくすることすら拒まれることも珍しくはない自分に、充分な衣食と寝床を与えてくれた上、下働きの従者まで付けてくれたメルの計らいと、それに従うリンレイはじめとする屋敷の者達の寛容さは、深く傷つき疲れていた彼の心身を癒すに充分であった。

 自分は今生二度と他人を信じることなどできないのではないかとすら思っていたフリトにとって、再び命数を与えられた事と同じぐらいに有難いことだ。

 まったく変わってしまった生活に慣れるのに少々時間を要したが、リンレイとであればフリトはむやみに卑屈にならずに済んだ。


「いいえ、これがあたしの仕事ですもの。フリト様は殆どご自分でされてしまうから、すっかりあたしは怠け者になってしまいましたよ」

「っはは。じゃあ、明日からは大いに働けるね」

「ええ、そうなりますわね」


 行燈あんどんの明かりと萌黄色の月明かりの射しこむ小さな部屋で、フリトはリンレイとささやかな旅支度を整えていた。先日テレントの父親から命じられた、黄来禽を給わるための旅に彼も加わらないかと誘いを受けたからだ。

 粗方の荷支度が整い、なんとなく二人息を吐いた時、リンレイがすっと立ち上がり、「あたたかい御茶でもお淹れいたしましょうか」と、言うと、フリトがやわらかく頷いて応えた。「リンレイも呑みなよ」と、言って。


「よろしいんですか?」

「うん。荷づくり、手伝ってくれたお礼に」

「まあ、ありがとうございます」


 フリトから振舞われた一杯の茶をリンレイは丁寧に自分用にも淹れ、そしてとても美味しそうにひと口飲み干す。

 一日の終わりと荷づくりの疲れが温かな茶のぬくもりに溶けていくのを感じながら、二人は甘い色の月を見上げて溜息を吐く。甘い月の色はまるでフリトがこの屋敷の中で過ごしてきた日々のようだ。

 しかし彼は、次の旅に加われと誘われたことにも大きな安堵を覚えている。

 元より一所に落ち着くことなく彷徨うようにして生きてきた彼にとって、旅に次ぐ旅というものはさほど苦にはならない。寧ろ、一所に留まって根を生やしてしまう事の方が彼にとっては未知なる苦痛や不安を生むからだ。

 もしテレントとメルの心遣いで、屋敷の下働きなどとして安住の地や最低限の衣食住を保障されてしまったら、再びグドの村で引き起こされた惨事を招かないとは言い切れない気がフリトにはしていた。

 それでなくともこの家は宝である樹を失ったばかりで、いくら主人の信を置いている者とは言え、余所者の、それも身分も風体も怪しい者などを住まわせておくような精神的な余力など今は皆無に等しいと思われる。

 そう時間をかけずに、幾度となく繰り返された居心地の悪い日々が訪れることを思えば、フリトは旅に同行することを選ぶ方が無難と言える。

 巡り合わせよく再び回り始めた事態に身を委ねようとしつつも、違う不安が彼の胸中に疼く。疼く理由を深く考えれば考えるほど、胸中にそれはゆったりと広がりを見せ、やわらかな月明かりに照らされ物想いに耽っている赤い眼の横顔は、何か惑う色をにじませる。

 淡い影のような表情が気にかかったのか、リンレイがフリトの名を呼ぶと、弱く彼は笑った。


「……あのさ、」

「はい」

「露島って、露神……麒麟が住むんだよね? 魂のもとになる黄来禽の樹があって、この世で最も慈悲深い生き物が住む神の島……」

「ええ。それが、どうかなさいましたか?」

「ん……なんか、俺みたいなのが、そういう処に行ってもいいのかなぁって……。信じてくれた人の、大切な人を傷つけて逃げ出したようなやつが、黄来禽の樹を貰いについて行ったりしていいのかな? だってさ、樹は、魂のもとが生るんだよ? 俺みたいなのが樹に触れでもしたら、きっと樹は枯れてしまう」

「何故です?」

「何故って……俺の手は血で汚れているからだよ。慈愛の塊の麒麟が最も嫌うもので汚れてる俺や俺の魂がそんなところに足を踏み入れるなんてさ、きっと許されないよ」


 胸中に渦巻く不安を、甘い月明かりを浴びながらフリトは淡々と語る。

 この世界に息づく生命の種を宿した実を生やす樹、それを護っているとされる慈悲の生き物。

 この世界を創られた天帝の御使いでもある麒麟にまみえることが、いくつもの命やそれを宿す肉体を傷つけ奪った罪を重ねてきた自分に許されるのか、そしてまた、それにより樹を給わることが叶わないのではないかと懸念しているからだ。

 もしそうなってしまったら、テレントとメルをはじめとする、世話になった屋敷の者達に申し訳が立たないことも目に見えている。

 簡単な言葉で不安を語るフリトの言葉を聞き終えると、リンレイは暫しじっと空になった湯呑を見つめていた。


「そうでしょうかねぇ……あたしは、そう思いませんけれど」

「なんで?」

「うーん……これは、あたしの考えなんですけどね。フリト様は、誰よりも魂の重みや意味をご存じなのではないかと思うんです。だって、フリト様は一度お亡くなりになって、そしてまた生き返られた。そうされたことによって、当たり前に生きている事の有難味を充分にご存じなのではないのかしら、と……あたしは、思ったんです」

「そう、かな……」

「だって、起こった事のすべて、奪おうと思って奪った命ではないのでしょう? 傷つけてしまおうと思ってされたわけではないですよね? それぐらい、きっと神様の御使いである露神は、きっと汲んでくださると思いますよ。そうでなきゃ、誰一人として黄来禽の樹を給わることなんてできないではないですか。天帝は、そこまで御心の狭い方ではないですよ」


 明るく曇りない口調に、フリトは、「……だと、いいけど」と、思わず苦笑する。それを見たリンレイもまた、朗らかに笑う。


「それに樹を頂きに行くことは、誰もどうすればいいのかなんてわからない事だらけなんですから、フリト様が行ってはいけないだなんてことだってないとも思いますよ、あたしは」

「……うん。そうだね」


 不意に、彼の脳裏に「天のご所思」という言葉がよぎった。かつて彼と共に旅をした、王族の末裔のひとりだと言っていた紫の眼をした男の言葉だ。

 一度絶えた筈の命数が再び与えられ蘇ったことに不可解だと疑念を抱いていたフリトに、それは天のご所思であり、全うしていくことこそが背負う罪を償うことにもなるのでは、と、彼に説いたのだ。

 与えられた新たな魂を全うしていく。その上で今度は生命のもととなる樹を給わりに行く旅に出る。

 明確なものは何一つ掴めても解かれてもいないことに変わりはないのだが、全くの無関係であるとは思えなかった。


「フリト様。どうか、皆様お揃いで、ご無事でお戻りくださいね。御戻りの際にはとっておきのお茶とお菓子をご用意いたしますから」


月明かりの下でやわらかく微笑みかけるリンレイの顔が、フリトの胸の深い処をそっとつつく。かつて彼の傍にそっと寄り添い見守っていた大切なぬくもりを帯びた影にとてもよく似ていた気がしたから。

 フリトは、口を開いてしまえば言葉よりも先に涙が伝ってしまいそうな気がして、リンレイの言葉に小さくただ頷くことしかできなかった。

 生きて、自分を待つ者の許へ帰ること……それを胸に旅立つ事が、再び自分に起こり得るとは夢想だにしていなかった。

 口にできなかった言葉ごと飲み干した湯呑の茶はほのかに苦く、それでいてやさしい味がした。



 月が夜空高く昇り始める頃になるとフリトはリンレイを自室に下がらせ、ひとり部屋の寝台に寝転ぶ。

 明日の未明に発つのだと昨日の午後に告げられているので、出来る事ならもう休んだ方がいい事は判ってはいたのだが、何故か眠りに就けていない。不安や恐れではないのだが、妙に気が騒ぎ落ち着かないのだ。

 心休まるようにと、リンレイが部屋を出る間際に焚いてくれたほのかに甘い香のかおりが小さな部屋を満たしていたが、あまり効果はないようだ。

 幾度目かの溜息を吐いて天井をぼんやり眺めていると、部屋の戸が叩かれた。

 フリトはハッと我に返って起き上がり、戸の向うに居る者に応えると、「――フリト、まだ休んでないか?」と、訊ねる声がする。


「メル? うん、まだ起きてるけど……なに? 明日のこと?」

「おまえに、御客人だ」

「え? 客?」


 自分を見知る者などこの街には誰もいない筈なのに……自分にそぐわない言葉に首を傾げつつ寝台から降りて戸を開けると、メルと、彼が連れて来たと思われる客人がその背後に立っている。夜の闇にも浮かぶほどに鮮やかな金色の髪と、碧い瞳。

 メルの手に持つ小さな灯りの僅かな明かりを受けてぼんやりと見えるその姿に、フリトは驚きのあまり言葉を失った。

 眼差しを自分の背後に向けたまま愕然とした表情をしているフリトと、見つめられている背後の方へ交互視線をやりながら、メルは苦笑気味に言葉を続ける。


「ああ、おまえにどうしても御目に掛りたいってな、この御客人が」

「……な、んで……」

「さぁなぁ。俺じゃなくて、直接本人に訊いてみろよ。……んじゃ、俺はもう休むからな」

「え、ちょ……なんでだよ!」

「なんでって……おまえに会いたいつってる御客人を連れてくるまでが俺の役目で、それはもう終わったからな」

「そん……俺は会うなんて一言も言ってない!」


 招いた覚えも、逢いたいと願った憶えもない不意の来客に、フリトは拒絶とも取れる言葉を吐く。そしてその相手を思わず睨みつけると、眼差しの先で相手がたじろぐ様な素振りを見せる。

 フリトの反応に、メルが困ったように笑いながら、「まぁ、そう言うなよ。はるばる西の僻地から船と馬車に揺られて来てくれたんだからさ、周囲の反対押し切って」と、言うのだ。

 簡潔に述べられた客人の経緯を聞いてフリトの眼が驚きで見開かれる。


「えっ?」

「つーわけだからさ、ちょっとぐらい話し相手になってやれよ。どうしても我慢ならなかった誰か呼べ」


 フリトが呆気に取られている隙をつくようにメルがそう言い置いてきびすを返して去っていくのを、彼は複雑な怒りのような思いを抱きながら見送る。

 その視線に挿し抜かれたように、客人もまた複雑な表情をして立ち尽くしていた。


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