第18話 しあわせを願っての別れだと信じて

 萌黄色の月明かりが静かに降り注ぐ中庭の橋の上に、二つの人影が並ぶ。降り注ぐ明かりよりもそっと手を繋ぎ合っている二人は、言葉少なにゆっくりと歩みを進める。まるで、共に分かち合っている今と言う時間を惜しみ味わっているかのように。

 やがて二人は橋を渡りきり、小さな東屋のある、夜闇にも浮かぶほどに黒い裸の地面を晒した場所に辿り着いた。黒い土の上には相変わらず花が多く手向けられている。

 繋いでいた手を解き、二人は花の近くに屈みこんで手を合わせ、それから赤い銅色の髪をした影がそっと黒い土を撫でる。


「……本当、だったんですね、焼けてしまったのは」


 ぽつりと彼女が呟くと、傍らに佇んでいた彼がそれに応えるようにうなずく。


「火をつけた奴は、一昨日、刑が執り行われたそうだ……」


 二人はぼんやりとしばらく焼跡の地面を眺めていたが、「向うに座らないか、服が汚れるだろ」と、彼が促し、再び彼女の手を取って傍らの東屋まで歩く。二人のいるすぐ傍を流れる小さな川のせせらぎが静まり返る庭の闇に溶けていく。東屋の長椅子に並んで腰かけても、二人の様子はどこかぼんやりとしたものだった。

 数刻前に終えた夕餉の後、庭を散歩しないかと彼から誘われて彼女も応じはしたが、歩き出してから殆ど言葉を交わしてはいない。お互いに胸中にある感情を見透かしているのと、今宵この場に居る事の意味を重々承知しているせいもあってどうしても言葉を選んでしまうのだ。

 どう、切りだしたものか……取り繕うにも他に言葉がなく、周囲に付いている者もいない。

 全くの護衛がないと言うわけではもちろんないのだが、二人が明らかにその気配や姿を認識できるほどに傍にいない。殆ど二人きりの空間にされているのは、やはり、今日、二人がここに居るのは他でもなく、二人の婚儀の契りを破棄するためだからであろう。

 文書や親同士の会合で済ませてしまってもよい手筈なのに、あえて当人同士を引き合わせることを望んだのは、テレントの方だった。

 随分と苦しい手筈をお選びになったものだ……ミイワは、薄暗い中で言葉を探しているであろうテレントの横顔を見つめながら思う。

 黄来禽のある家に嫁ぐ事が出来ると言う事は、それだけ嫁ぐ家にも、嫁がせる家にも多かれ少なかれ何らかの恩恵を約束される。実際のところ、樹のある家に子が嫁いだ家は個々に差はあれど、繁栄をしている。

 その、家宝でもある黄来禽を焼失したのは先方の過失とも言えることから、婚約の解消の申し出るのは当然とも言える。

 それでも契りを結んでいた当人たちが顔を合わせてそれを破棄すると言う事は相当に辛い作業と言え、お互いに受ける痛みは計り知れない。

 あえて辛い方法を望んだと言う事は、そこに彼が何らかの意味を持たせているからではないだろうか……そこまでは、ミイワも考え至る事が出来た。しかし、一体彼が何を彼女に伝えようとしているのかまでは推し量ることはできていない。

 そしてそのまま、いま二人は並んで黄来禽の焼け跡を臨む東屋に居る。


「――なぁ、」

「……はい」

「憶えてるか? ここで、無花果いちじくを食ったこと」


 不意に声を掛けられ隣を振り返ると、いつもと変わらぬ人懐っこい笑みがミイワを見つめている。

 笑みに釣られるように彼女もまた微かに破顔して頷き、「ええ、そうでしたわね。早生りの、甘い無花果でした」と、答える。

 二人を取り囲む景色や季節、そこから醸し出される空気は何一つ変わってはいないように見えた。

 少しだけ夏の雨期が近付いているせいで蒸し暑く、庭の木々の緑が青い匂いを漂わせている。

 差し出された実のささやかな重さ、同じぐらいささやかに残っていた彼の手のぬくもり、口づけた果実の甘さ。問われた途端に、まるで今しがたの出来事のように記憶が彼女の脳裏を駈け廻った。

 幼い、まだまだ子どもの時分に大人同士が交わした約束事で結ばれていた二人。

 連れ立って庭を歩きまわることは出逢った当初からの慣例であったが、そこに意味や感情が籠められてき始めたのはごくごく最近こと。手を取り合うなどもっと最近だ。

 眼差しがかち合えば慌ててそらせてしまう程に互いを意識して照れてしまうような淡い恋情をいだき合い、それがやがて大きく二人を結びつけるのだと信じてやまなかった。譬えそこに、ほんの僅かに彼女の冷えた後ろめたい感情が漬けこむ事があったとしても。

 少なくとも、このような形で終局を迎えることになろうとは、夢にも思っていなかった。それはお互いに、そしてお互いの家族も周囲の者たちも皆思っていた事だ。

 だが、樹はもうここにはない。焼け落ちてしまった樹を蘇らせることはどんなに有能な治癒系の精霊の術をもってしてもかなうことはない。

 家の没落すら最悪な将来として考え得る事態に、やわらかく芽吹きかけていた二人の感情は儚く泡となるのは避けられない現実なのだろう。

 テレントと再会するまでの日々の中で、ミイワの中に静かにそのような覚悟が降り積もっていた。


「なぁ、ミイワ。おまえには、おまえのご両親には、本当に申し訳ないことになってしまった。本当に、すまない……」

「そんな、テレント様」

「俺が留守の間に起きた不祥事による今回の事、今は父上が采配をとっているとは言え、俺はまだ留学中であったとはいえ、そんなのは言い訳に過ぎないだろうからな。この屋敷で起こってしまったことはこの家の者の責任だ。そうだろ?」

「…………」

「樹のない家に嫁いだところで、苦労するのはミイワのご両親はじめ家の者達だ。俺とおまえは、互いの家のために結ばれる筈だったんだからな……まぁ、仕方ないかな……」


 弱く笑いながら紡がれる言葉がミイワの胸を突く。決してミイワが傷つく事のないよう選び抜かれた筈の言葉達がゆっくりと並べられていく様は、余計に彼女の心を締めつける。覚悟を決めていた筈なのに――思わず噛みしめた唇が微かに痛む。


「そんな顔するなよ。おまえにはきっと、この先も良い話が来るだろうから、そんな悲しげな顔をしちゃいけないよ」


そう言いながらテレントがミイワの頬にそっと触れ、その瞬間に彼女の頬に堪えていた感情が音もなく伝っていく。

 はらはらと零れ落ちる言葉にならないミイワの想いを汲むように、テレントはそれらをそっと指先で拭う。

「おまえが泣くのを見るのは、久しぶりだな」と、テレントが苦笑しながら言うと、ミイワもまた涙ながらに小さく笑った。

 元々ミイワは人前で滅多に涙を見せないほどに気の強い性分で、そして弁が立つ。

 四つ年が上のテレントを言い負かせることなど朝飯前で、そのあまりの気の強さに腹心のメルが耐えかね、時には口論にさえなった事もあった。そして、そのメルでさえも言いくるめてしまうほどだ。

 三人は歳が近いだけでなく気がとてもよく合う事もあって、彼らだけでいる時はメルもミイワも互いに対等な接し方をしていた事も、たびたび二人が言い争いをしてしまう要因として大きかった。

 その彼女が涙を見せたと言うのが、かれこれ五年ほど前の正月の挨拶にミイワがこの屋敷を訪れた時の話だ。

 正月のためにとわざわざ新調した晴れ着を身につけ、いつもよりずっと大人しく女性らしさを押しだすように振舞ったことがあった。

 その当時はまだミイワは十代の初め頃で、どちらかと言うと幼子のような所が眼についていた。

 挨拶はしてもすぐに退屈だ、庭に出ようと言い出したり、テレントの前でも大きな口を空けて欠伸をしたり、など、従者のノーアの叱責と溜息がすぐさま飛んでくるような有様だった。

 その彼女が、そんな大人の女性の真似ごとをしている……それがテレントにはとても新鮮で、愛らしくも思えたのだが、素直に褒め言葉を口にできるような性分では彼もまたなかったため、心にもない言葉を放ってしまったのだ。


「“んだよ、ミイワ、腹でも痛いのか?”……だなんて。後にも先にも、あんな失礼な褒め言葉を頂戴した事はありませんよ……」

「っははは。あれはなぁ……俺も、自分でもどうかと思うよ、本当に。あれ、流石にメルにすっげぇ怒られたんだよ。“おまえは言葉を知らな過ぎる! あれはあんまりだろ!”ってさ」

「そうでしょうとも。次の御方の時はお気を付け下さいよ、そんな失礼なこと言われても、あたしのように婚約を破棄しないなんて言う懐の深ーい女性はなかなかいませんからね」

「そうだな……ま、でも、その心配には及ばないんじゃないかな……」

「……それは、どういうことです?」


 涙の痕の残る顔が弱く綻んで思い出話に興じていたところに、現実が不意に影を落とす。テレントの思いがけない言葉にミイワの表情が再び硬くなった。

 弱く困惑したように苦笑しながら彼女を見つめてくるテレントの表情に、今宵わざわざ二人きりで庭を歩いてきた本当の理由がにじみ、ミイワの胸のその奥にある鼓動を発する処が、強く掴まれたように痛んだ。冷たい胸騒ぎに身体中の血の気が引いていくのを感じずにはいられない。


「――明日から旅に出ることになった。真朱しんしゅ露島ろとうと言う処に行く。樹を、黄来禽を給わりに」

「テレント様、それは、本当に……」

「ああ、本当だ。なにせ、父上から直々に頼まれたんだからな。俺が行くしか――」


 テレントの言葉を遮るように、「でも、テレント様はこの家の後嗣様で……」と、ミイワが言い掛けると、テレントは悲しみを多分に含ませた頬笑みを浮かべた表情を彼女に向けた。胸の痛みがぐっと増していくのを感じ、ミイワはゆったりと眼を伏せる。

 彼女も他の者たちと同様、黄来禽を再び賜るための旅がどのようなものになるのか、そこに待ち受ける困難がどんなものであるかは知らない。

 しかし、先のこの国の秘宝であった闇の月を巡る旅同様、容易いものではないことぐらいは想像に難くはない。

 テレントに託された務めそのものの重要さは十二分に承知しているつもりではあるものの、それが課されるのが彼であることにミイワは納得がいかない。

 同時に、それを口にしてしまえるほどに事態が甘いものではないことも解っている。


「うん……でもな、それは、この家を継ぐのは、別に俺でなくてもいいんだと思う」

「えっ……?」

「ナオが……弟が、俺の代わりになってくれるだろうから。あいつは俺よりもずっといい親方になるだろうしな」

「でも、テレント様の方がナオ様より後嗣様としての資格をお持ちなのでは……」

「建前上はな。でもこうして父上が俺に樹を給わりに行けと言うのであれば、譬え後嗣と言われている俺であろうと、それに従うまでだ。ナオでなくあえて俺に行けと言うのなら、何か理由があるからだろう。……そうである筈だ、きっと」


 暗闇と黒い焦土を真っすぐに見据えながら、そう静かに語るテレントの横顔に、ミイワはただ愕然としたまま返す言葉を失くしていた。

 甲辰の樹を焼失したと報せを受けてから、ミイワはこの家の誰かが、テレント以外の誰かが樹を給わりに行くことになるのだろうと信じて疑っていなかった。

 譬え婚約を破棄されることになっても、それは樹を失ってしまったことによる余波に過ぎず、今回直接会う事で先方の気が変わるかもしれないと僅かに望んでいなくもなかったからだ。

 しかしそれは、空しい願いにもならないままに掻き消されてしまった。


「だからな、ミイワ。おまえは、俺のことを忘れて、もっとしあわせになれ。いつ潰れるかもしれない家や街のことなんて考えるな」


まるで彼女の感情を逆撫でるような言葉の衝撃に、ミイワは目の前が闇よりも深く沈んでいくのを感じずにはいられない。

覚悟を決めていたとは言え、心の片隅ではまだどうにかなるのではないかと思いこんでいた度合いが、自分で考えていたよりも深い事に気付かされたのもまた彼女に与える絶望の色を濃くさせる。


「……嫌です。そんなことできません」

「……ミイワ、子どものような事を言わないでくれよ」

「子どもで結構です。嫌なものは嫌なんですから」

「ミイワ。これは、おまえのためでもあるん……」

「あたしのためと言うのであれば、婚儀の契りをこのまま御結びになっていてください」

「だから、それは無理なんだ。俺がこの家の人間である以上、父上の命令は絶対だ。おまえと、おまえの家に迷惑はかけられない」

「それでも嫌です。あたしのためになることがテレント様とお別れすることではないことぐらい、お解りの筈でしょう、テレント様」

「……無理だ、できない」

「出来ないことなどありません、あたしはいつまででも御帰りをお待ち……」

「ミイワ!」


 うわ言のように零した言葉から感情に任せるまま言葉を吐き続けるミイワの名を、テレントがいつになく強く厳しい口調で叫ぶことで彼女の言葉は制されてしまった。

 ミイワが怒りと悲しみと混乱が渦巻く胸を抱えて、睨みつけるように見つめ返した瞳もまた、同じような深い悲しみに濡れている。


「……これ以上、おまえが泣くとこなんて、見たくないんだよ」


 呻くように苦しげに言葉を吐くテレントに、ミイワは己でもどうにもならない悲しみの声をあげる。


「……でも!」

「忘れるんだ、俺の事、この家の事、全部。そんで、もっといいヤツとしあわせになれ」


 未だかつて見たこともないようなやわらかくやさしい表情をしているテレントの顔は、微笑んでいながらも泣いているようだ。

 残酷なほどやさしく甘い言葉を差し出しているせいだろうか、ミイワの視界に映るその表情はただただ彼女の胸を掻き乱す。自分のことを想うのであれば、このまま契りを結んでいればいいのに、と。

 しかし、彼女にもそれが不可能であることは解っていた。解っていたからこそ、ここに来るまでの間にそれなりの覚悟をしていたのだ。

 それでも受ける悲しみの衝撃とその痛みは耐えがたいものがあり、言葉にする事さえ叶わなかった想いがミイワの頬を伝い落ちていく。


「………できません、あたしには、そんなこと……」

「できるよ、きっと。おまえは、誰よりも美しいんだから。俺が、生涯ただ一人愛した女だからな。きっとしあわせになれる」

「……テレント、様」


 悲しみの雫の伝う頬に触れていた指先がすぅっと桜色の口許を撫で、そしてそこにテレントの唇が触れる。

 彼がここに触れたのはかつて、一度きり……あの夏の、無花果の味のする唇を重ねた夜だけだ。

 蜜色の幸福の色をしていた記憶を辿りながら触れていた唇からそっと離れると、向かい合った愛しい顔は哀しみに濡れて煌めいていた。


「――愛してるよ、ミイワ。しあわせになれよ、きっと」

「……はい。テレント様も、どうか、ご無事で……」

「ありがとう、ミイワ」


 名前を口にした瞬間、テレントの中に無意識に堪えていた感情が溢れ出したのか、彼が咄嗟に離れた筈の彼女との距離を縮め、腕に抱いてきた。久方ぶりに触れ合うぬくもりに、感情は余計に刺激されることになるのに。

 言葉にすることももどかしい痛みと悲しみがきつく抱きすくめて来る腕の強さから伝わってくるのか、ミイワは抗うことなくテレントの腕の中にいた。

 蛍火のない静かなせせらぎの音だけが漂う夜闇の中、残された時間をひと時も逃さないよう、二人は強く抱き合っていたのだ。



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